バックハウス ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集(新)

ウイルヘルム・バックハウス(1884年 – 1969年)は、かつてドイツを代表するピアニストとして広く知られました。
日本では音楽評論家の宇野功芳さんが著書で何度も「バックハウス、バックハウス」と書いておられたので、わりと信奉者も多いです。
しかし今日では、例えばバックハウスのライヴァルであったウイルヘルム・ケンプの業績が見直されたり、また言葉は悪いですが、バックハウスを超えるテクニシャンは現在では掃いて捨てるほど出てきていますので、その神格化は徐々に崩れつつあります。

私はと言いますと、宇野さんが貶していたリヒテルにむしろ感服していましたし、バレンボイムやギレリス、ポリーニら後続世代のピアニストのCDを買い漁っていたクチです。つまり、バックハウスの熱心な聴き手ではなかったのです。

ではお前はバックハウスは全然評価しないのか?と言われるとそういうわけではなく、モーツァルトの「ロンド イ短調」、ブラームスとモーツァルトのピアノ協奏曲、そしてケルンテンの夏での最後の演奏会は本当にすごい演奏だと思います。私は「精神性」という抽象的な言葉は使いたくないのですが、これらの演奏には確かに孤独の影というか、一人のピアニストが音楽の中にひたすら求道するような「虚無の境地」を感じるのです。

で、今日ご紹介するベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集もまた素晴らしい出来栄えです。
ちなみにバックハウスの全集は2種類あります。ひとつはモノラル時代、1950 – 1954年録音のもの。で、もう片方はステレオ時代、1958 – 1969録音のものです。ただし、ピアノソナタ29番「ハンマークラヴィーア」だけは新盤には含まれていません。
単純に比較して、旧盤は60代後半なだけにまだまだテクニックが健在。新盤は少しぎこちないというか、エスプレッシーヴォではないですね。
ただし、繊細なpppから強靭な打鍵まで捉えられるステレオのアドヴァンテージは高く、また晩年の境地を反映しているので、やはり新盤がファーストチョイスかもしれません。

 

DISC 01
ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調 op.2-1
ピアノ・ソナタ第2番イ長調 op.2-2
ピアノ・ソナタ第3番ハ長調 op.2-3
ピアノ・ソナタ第5番ハ短調 op.10-1

DISC 02
ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調 op.7
ピアノ・ソナタ第6番ヘ長調 op.10-2
ピアノ・ソナタ第7番ニ長調 op.10-3
ピアノ・ソナタ第8番ハ短調 op.13『悲愴』

DISC 03
ピアノ・ソナタ第9番ホ長調 op.14-1
ピアノ・ソナタ第10番ト長調 op.14-2
ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調 op.22
ピアノ・ソナタ第12番変イ長調 op.26

DISC 04
ピアノ・ソナタ第13番変ホ長調 op.27-1
ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調 op.27-2『月光』
ピアノ・ソナタ第15番ニ長調 op.28『田園』
ピアノ・ソナタ第16番ト長調 op.31-1

DISC 05
ピアノ・ソナタ第17番ニ短調 op.31-2『テンペスト』
ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 op.31-3
ピアノ・ソナタ第19番ト短調 op.49-1
ピアノ・ソナタ第20番ト長調 op.49-2
ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 op.53『ワルトシュタイン』

DISC 06
ピアノ・ソナタ第22番ヘ長調 op.54
ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 op.57『熱情』
ピアノ・ソナタ第24番嬰ヘ長調 op.78
ピアノ・ソナタ第25番ト長調 op.79『かっこう』
ピアノ・ソナタ第26番変ホ長調 op.81a『告別』

DISC 07
ピアノ・ソナタ第27番ホ短調 op.90
ピアノ・ソナタ第28番イ長調 op.101
ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調 op.106『ハンマークラヴィーア』 ※モノラル

DISC 08
ピアノ・ソナタ第30番ホ長調 op.109
ピアノ・ソナタ第31番変イ長調 op.110
ピアノ・ソナタ第32番ハ短調 op.111

録音:1952-69年

 

 

ベートーヴェンには多様な弾き方がある

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集と言いますと、古いシュナーベルやケンプ、グルダ、比較的新しいバレンボイム、アシュケナージ、ブレンデル、最新のルイスなど、多種多様です。また、全集を完成できなかったギーゼキングやギレリス、いちおう完成は見たものの、歳月がかかりすぎたポリーニなどもいます。
私もひと通り聴いていますが、本当にそれぞれの個性が出ていて、どれが良い悪いなどとは一概に言えないですね。
ピアノソナタ第17番 ニ短調「テンペスト」にしても、第1楽章冒頭2度下降の動機をレガートのように弾く人もいれば、シンコペーションのような強弱をつける人もいます。これは終楽章も同様で、ピアニストによってずいぶんテンポが違うのに驚かせられます(ブレンデルとアラウでは1分以上の差があるくらいです)。あと「月光」も第3楽章の冒頭部の処理(アルペッジョからsfの一撃まで)はフランソワはかなり変わっています。
そういう意味で、恣意的な誇張もなく、淡々と、しかしドイツ伝統の格調ある弾き方をしているのがバックハウスでしょう。バックハウスは、ベートーヴェン→ツェルニー→リストの流れをくむ本流中の本流。愛用したピアノはベーゼンドルファーで、高音域と低音域の響きの良さは素晴らしく、ここで言えば、ソナタ第21番 ハ長調 作品53「ヴァルトシュタイン」3楽章のロンド楽章の主題は天から降り注ぐ星のきらめきのようであり、ソナタ第32番ハ短調作品111の第1楽章第1主題のアクセントの強い弾きぶりはドイツ直流の面目躍如という風格です。

これからベートーヴェンのソナタを揃えたいという方は、まずはバックハウスの新盤をお聴きになり、バックハウスをもっと聴きたくなれば旧盤を、いろいろな解釈で聴いてみたい方は例えばブレンデルとかいろいろな発見ができると思います。

 

ぜひ聴いて頂きたいハイドシェックの録音

宇野功芳さんは生前、エリック・ハイドシェック(1936-)のベートーヴェンを賛美していらっしゃいました。ハイドシェックはフランスの大ピアニスト、アルフレッド・コルトー(1877-1962)の直弟子で、若かりし日、そのロマンティックかつ激情的な弾きぶりが注目されていたものの、次第にメジャー路線から外れていきました。
表舞台から姿を消した要因は不明ですが、80年代後半になって、宇野功芳さんや作家の宇神幸雄さんらが彼の才能を惜しみ、愛媛県の宇和島市でコンサートを企画。ライブ録音し、発売したCD が大ベストセラーになりました。この出来事は、40代以上のコアなクラシックファンならご存知かと思います。
現在、これらのCDは国内盤で、非常にお求めやすい価格で再版されています。また、過去に取り上げたアンドレ・シャルランがエンジニアを務めた壮年期のレコードもCD化されており、ハイドシェックファンにはたまらないだろうと思います。
おススメは「熱情」ソナタで、終楽章コーダの追い込みは壮絶です。この楽章は普通に弾いてもドラマティックですが、ハイドシェックの場合、音が洗練され粒だったまま、ものすごい勢いで突進していきます。これをぜひ、バックハウスと聴き比べて頂きたいものです。ピアノソナタの奥深さに魅了されると思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA