チョン・キョンファ デッカ録音全集

チョン・キョンファ(鄭京和)といえば、かつては泣く子も黙る勢いのヴァイオリニストでしたが、出産や指のケガなどもあって現在では活動をセーブし、むしろ弟の指揮者、チョン・ミョンフン(鄭明勲)の方が有名になっています。

ただ、往年の彼女の切れ味鋭いヴァイオリンを知る者は、現代を代表するヴァイオリニストとして、いまだに彼女の名前に指を折るでしょう。デビューから暫くの彼女の存在感は圧倒的で、その演奏はものすごいインパクトを誇っていたのです。

そんな彼女が最初に真価を示したレコードは、シベリウスとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲でした。

チャイコフスキーは、冒頭から豊かな響きと落ち着いたテンポで、意外にも激しさは見せません。いやそれどころかどこか飄々としていて、技巧の精確さよりもフレーズを丁寧に歌い込むところに最大の魅力があります。当時、彼女は22歳。テクニックよりこの表現力には脱帽します。カデンツァなんてじっと耳を傾けていたい心地よさです。
オーケストラ共々、憂愁に満ちた2楽章のたっぷりとした音色。そこからなだれ込むように3楽章にギアチェンジしていくと思いきや、常識的なテンポでセーブし続け、第2主題を濃厚に歌い上げたかと思うと、一転、コーダをすさまじいテンポで駆け抜けていく小気味よさ。巷間、チョンは気分で弾くようなイメージがありますが、構成をしっかりと見極めるタイプであることがこの演奏でよくわかります。

ところでチョンは1981年に、同じ曲をシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団と再録音しています。デジタル録音で音にみずみずしさが加わったのと、オーケストラの音色が色彩豊かなのは大きなアドヴァンテージです。前録音から10年ほど経っていますが、この録音こそチョン・キョンファのイメージを良く表した名演だと思います。

とにかくヴァイオリンの音色の切れ味の鋭さが尋常でない。弦の張力が高いのか、弓づかいが駒に近くシャープなのか、素人にはなかなか出せない音です。ヴィヴラートもすすり泣くようで、1楽章のカデンツァは非常に聴きごたえがあります。続く2楽章は前録音のロマン性に大きなスケール感が伴った素晴らしい演奏!音の強弱の付け方が大家風で、節回しが日本の演歌のように溜めて絞り出すような感じになっています。そしてお待ちかねの第3楽章は、チョンの激烈な音色が炸裂し、魅惑的なオーケストラとしのぎを削り溶け合いながら、コーダに向けて突入していきます。これだけの演奏は、他にハイフェッツしか思いつかないレヴェルに達しています。ぜひ聴いて頂きたい。

チョンの数多あるレコードの中で、とりわけ有名なジャケットと言えば、このCDかもしれません。昔、日本では「ロンドン」のレーベル名で、デッカの商品がリリースされていましたが、定期的に「ベストクラシック100」のようなタイトルでたくさんのCDがレコード店に並んでいました。今では考えられないような話です。当然、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は誰もが認める名曲ですし、このチョン盤がデッカイチオシの録音でしたので、「100」には必ず採用され、そのたびに大写しの美人が際立つこのジャケットが印象的でした。

演奏も素晴らしい。オーケストラは天下のウィーン・フィル。指揮者は冷戦当時のソビエトから亡命し、西側で華々しくデビューしたばかりのキリル・コンドラシン。ヴァイオリンは韓国人のチョンですから、当時としては非常に国際色豊かな組み合わせと言って良いでしょう。

とはいえ、第1楽章はやや鈍重でもっさりしています。これはひょっとしたら、コンドラシンがオーケストラを掌握しきれていないか、ソ連式のベートーヴェン観から抜け切れていないからかもしれません。でも、チョンのヴァイオリンが入ってきたあたりから音楽は一気に垢抜けます。特に魅力的なのが序奏のリズムを柔らかく刻むティンパニ!

個人的な感想ですが、私は80年代のウィーン・フィルのティンパニの音が大好きなのです。このオケは、フランツ・ブロシェクとかローラント・アルトマンのようなティンパニの名手をたくさん輩出していて、アバドのベートーヴェン「第9」、クライバーのブラームス「第4」、カラヤンのシューマン「第4」など、柔らかく深い音が非常に印象的な名盤はその最良の果実と言えます。

このベートーヴェンでも、序奏動機のリズムは「運命の動機」に匹敵するほど曲を支配するだけに、ティンパニの印象的でありながらで古楽器オケのように強調しすぎない打ち込み方は最高だと思います。そんなオケをバックに、チョンのヴァイオリンは美しく飛翔し、クライスラーのカデンツァでは超絶技巧ながらもメロディアスで叙情的な音楽を聴かせます。カデンツァは退屈、という方にこそ聴いて頂きたい素晴らしい音楽です。

ロマンティックな第2楽章を経て第3楽章に至ると、チョンもオケも妙にテンポを煽ったりせず、落ち着いたテンポで堂々と進めます。ヴァイオリンに掛け合うホルンやオーボエの音色が何とも美しいですね。そして、リタルダント、テンポルバートを駆使して音楽を伸縮させながら一切の単調さを排除し、難しいパッセージを完璧にきわめて蠱惑的に弾きこなすチョンの表現力には本当に舌を巻いてしまいます。

ハイフェッツやクレーメルのような演奏を求める向きには物足りないかもしれませんが、私はイチオシしたい名盤です。

さて、チョンの協奏曲ばかり取り上げてきましたが、彼女の本領は小曲や室内楽でもいかんなく発揮されます。

彼女が1985年に発表した「コン・アモーレ」というタイトルのアルバム。

・クライスラー:ラ・ヒターナ
・クライスラー:愛の悲しみ
・ボルディーニ:踊る人形(クライスラー編)
・ヴィエニャフスキ:スケルツォ・タランテラ
・エルガー:愛の挨拶
・エルガー:気まぐれ女
・チャイコフスキー:感傷的なワルツ
・クライスラー:プレリュードとアレグロ
・ノヴァチェク:モート・ペルペトゥオ
・ドビュッシー(ハイフェッツ編):美しき夕暮れ
・ショパン(ミルシテイン編):ノクターン第20番
・ヴィエニャフスキ(クライスラー編):奇想曲イ短調
・ゴセック(マイヤー編):ガヴォット
・クライスラー:愛の喜び
・シャミナード(クライスラー編):スペインのセレナード
・サン・サーンス(イザイ編):ワルツ形式の練習曲によるカプリース
・ブラームス(ヨアヒム編):ハンガリー舞曲集第1番

現代のヴィルトゥオーゾがショーマンシップを発揮し、かつ大真面目に取り組んだ珠玉の小品集。これらの演奏は、私たちが日ごろ耳にする演奏スタイルとは若干異なり、スウィングしているというか、ジャズ風なリズム感があります。クライスラーの「愛の悲しみ」など、ディナーミクとアゴーギクがかなり独創的で、名手モルのピアノもチョンの意図を組んだように絶えず変化します。そうかと思えば、ボルディーニの「踊る人形」なんて、音色の美しさ、懐かしい節回し、まるで大昔のクライスラーやティボーの古ぼけた名盤がデジタルで再録音されたかのような趣があります。

極めつけはブラームスの「ハンガリー舞曲第1番」。彼女が1990年だったかに来日した際、アンコールでこの曲を弾いて衝撃的だったのを覚えていますが、彼女のお気に入りの曲なのでしょう。モルのピアノも低音と高音の対比が輝くように美しく、その上を憂愁に満ちた重めのチョンのヴァイオリンが駆け抜けていくのが何ともセクシーで、何度聴いてもウットリしてしまいます。ただの小品と侮るなかれです。

さて、今回挙げたほかにも、チョンにはメンデルスゾーン、ブルッフ、バルトークのヴァイオリン協奏曲、姉弟で結成したチョントリオによるドヴォルザークのピアノ・トリオなど珠玉の名盤が数多くデッカに残されていますが、今回それらがまとめてボックスになって再登場しました。

デビューから世界的な地位を確立し、栄光の80年代のさなか、出産を機に引退するまでの彼女の全盛期が刻まれたボックスです。

 

Disc 1
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 Op.35
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 Op.47
アンドレ・プレヴィン指揮、ロンドン交響楽団

Disc 2
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲 第1番、スコットランド幻想曲
ルドルフ・ケンペ指揮、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

Disc 3
ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲 ロ短調
ストラヴィンスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調
アンドレ・プレヴィン指揮、ロンドン交響楽団

Disc 4
J.S.バッハ:パルティータ 第2番 BWV1004、第3番 BWV1005

Disc 5
サン・サーンス:ヴァイオリン協奏曲 第3番
ヴュータン:ヴァイオリン協奏曲 第5番
ローレンス・フォスター指揮、ロンドン交響楽団

Disc 6
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲 第1番、第2番
アンドレ・プレヴィン指揮、ロンドン交響楽団

Disc 7
バルトーク:ヴァイオリン協奏曲 第2番
ゲオルク・ショルティ指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

Disc 8
エルガー:ヴァイオリン協奏曲 Op.61
ゲオルク・ショルティ指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

Disc 9
ショーソン:詩曲
サン・サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ Op.28、ハバネラ Op.83
ラヴェル:ツィガーヌ
シャルル・デュトワ指揮、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

Disc 10
ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 Op.61
キリル・コンドラシン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

Disc 11
フランク:ヴァイオリンソナタ
ドビュッシー:ヴァイオリンソナタ
ラドゥ・ルプー(ピアノ)

Disc 12
ラロ:スペイン交響曲
サン・サーンス:ヴァイオリン協奏曲 Op.20
シャルル・デュトワ指揮、モントリオール交響楽団

Disc 13
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 Op.35
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 Op.64
シャルル・デュトワ指揮、モントリオール交響楽団

Disc 14
ベルク:ヴァイオリン協奏曲
バルトーク:ヴァイオリン協奏曲 第1番
ゲオルク・ショルティ指揮、シカゴ交響楽団

Disc 15
“コン・アモーレ”(ヴァイオリン名曲集)
フィリップ・モル(ピアノ)

Disc 16
ドヴォルザーク:ピアノ三重奏曲 第3番、第1番
チョン・トリオ

Disc 17
メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲 第1番
ブラームス:ピアノ三重奏曲 第1番
チョン・トリオ

Disc 18
R.シュトラウス:ヴァイオリンソナタ Op.18
レスピーギ:ヴァイオリンソナタ ロ短調
クリスティアン・ツェメルマン(ピアノ)

Disc 19
ベートーヴェン:三重協奏曲 Op.56、ロマンス 第1番、第2番、
フルートとファゴットとチェンバロと管弦楽のためのロマンツェ・カンタービレ Hess 13
チョン・ミュンファ(チェロ)、パトリック・ガロワ(フルート)、パスカル・ガロワ(ファゴット)、
チョン・ミュンフン(ピアノ、指揮)、フィルハーモニア管弦楽団

特典DVD
メンデルスゾーン:交響曲 第3番「スコットランド」
同:第4番「イタリア」
同:ヴァイオリン協奏曲 Op.64
ゲオルク・ショルティ指揮、シカゴ交響楽団

 

ちなみに出産後、満を持して再登場した彼女の一皮むけたような、新たなスタイルによる名演は、EMIレーベルに移籍する形で数多く残されました。こちらもボックスになっていますので、ご紹介しておきます。

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