アニー・フィッシャー ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集 1

ユングさんのおかげで真価を知ったピアニスト

私がインターネット草創期の2001年頃からお世話になっているサイトに、クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~というところがあります。

クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

管理人のユング君という方が、クラシック音楽の青空文庫を目指し、著作権切れでパブリックドメインとなった音源をご自身のサイトにアップしておられます。

その数たるや膨大で、また内容も豪華。カザルスの無伴奏チェロ組曲、フルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲全集、ウエストミンスターの室内楽選集、マリア・カラス主演のオペラ、リヒターのバッハ宗教曲等々。これらが無料で聴けて、しかも、ロスレスのFLACファイルでダウンロードできるんです!聴く方は夢のようですが、管理諸々の手間を考えれば、ユングさんには本当に頭が下がるばかりです。

加えてこのサイトの素晴らしいところ。それは、これまで聴きたくても買うには躊躇した室内楽や器楽曲の全集が楽しめるところでしょう。個人的には、ヴェーグ四重奏団のベートーヴェン「弦楽四重奏曲全集」はありがたかったですね。

また、これまで聴かず嫌いだった、名前すら知らなかったアーティストについて、その真価をこのサイトで把握することができたのも大きかったです。ヴァンデルノートやコンヴィチュニーにハマったのもこのサイトのおかげだと思っています。

ピアニストのアニー・フィッシャー(1914年 – 1995年)もそんな演奏家の一人です。

彼女のことは、大昔に東芝EMIから出ていた「ベストクラシック100」みたいな廉価盤シリーズで名前を見かけたくらいでした。ライナーノーツの最後のページに、シリーズのCD一覧が掲載されていて、モーツァルトのピアノ協奏曲のアーティストに名前があったのを覚えています。

これがまた不運の始まりで、廉価盤にあるような知らない名前は、(当時)小中学生だと軽んじちゃうんですね。若いイギリスの廉価盤専門のピアニストだろうと勝手に思い込んで(実際はハンガリー出身)、以後私の中でのアニーはそういう扱いのまま終わってしまいました。

ところがです。

2010年代に入り、アニーの録音が次々とユングさんのサイトにアップされるようになりました。

クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~ アニー・フィッシャー

居並ぶベートーヴェンのソナタ録音。そして各曲の解説のところで、ユングさんがしきりにピアニストのことを褒めていらっしゃる。ものは試しで聴いてみるか…。とクリックした数分後…。

んっ!、何だこの素晴らしい演奏は!

ベートーヴェンの悲愴ソナタ。1958年、40代半ばの彼女の演奏。

思わずウイルヘルム・バックハウスの演奏かと思いました。ピアノはベーゼンドルファーでしょう。

ピアノの深く甘い響き以上に、何とどっしりと安定した雰囲気! それでいて打鍵は男性のように力強く、アッチェレランドをかけるところは情熱的な勢いで翔けていくので、聴いている方の爽快感はたまりません。

バックハウスと明らかに異なるのは、アダージオ楽章の節回しが情感に満ち、音の強弱、テンポの微細な変化がモーツァルト的な世界をつくりあげているところ。あと、全体的にそうなのですが、グリッサンドの表情が独特で、一音一音がしっかり響くと言いますか、パッと目の前に陽光に照らされた川の水が撥ねるような、そんな輝きを放つのです。

私はすっかりアニーの演奏の虜になり、この悲愴ソナタの他にもっと彼女の演奏がないか。あわよくばボックスが出ていないか、必死に探しました。

ところが、出てきたのはこれだけでした。

Disc 01
モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K.466
・ピアノ協奏曲第23番イ長調 K.488

管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
指揮:サー・エードリアン・ボールト
録音:1959年

Disc 02
モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467
・ピアノ協奏曲第22番変ホ長調 K.482

管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
指揮:ヴォルフガング・サヴァリッシュ
録音:1958年

Disc 03
モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第24番ハ短調 K.491
・ピアノ協奏曲第27番変ロ長調 K.595

管弦楽:ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
指揮:エフレム・クルツ(指揮)
録音:1966年

Disc 04-05
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集
・第8番ハ短調 Op.13『悲愴』
・第14番嬰ハ短調 Op.27-2『月光』
・第18番変ホ長調 Op.31-3
・第24番嬰ヘ長調 Op.78『テレーゼ』
・第21番ハ長調 Op.53『ワルトシュタイン』
・第30番ホ長調 Op.109
・第32番ハ短調 Op.111

録音:1957-1961年

Disc 06
シューベルト:
・即興曲集 D.935~第2番
・即興曲集 D.935~第4番
・ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 D.960
録音:1960年

シューマン:幻想曲ハ長調 Op.17
録音:1958年

Disc 07
シューマン:
・謝肉祭 Op.9
・子供の情景 Op.15
・クライスレリアーナ Op.16

録音:1957年、1964年

Disc 08
シューマン:ピアノ協奏曲イ短調 Op.54
リスト:ピアノ協奏曲第1番変ホ長調 S.124, R.455

管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
指揮:オットー・クレンペラー
録音:1960-1962年

バルトーク:ピアノ協奏曲第3番 Sz.119
管弦楽:ロンドン交響楽団
指揮:イーゴリ・マルケヴィチ
録音:1955年

アニー・フィッシャー(ピアノ)

 

EMIからリリースされた最初のベートーヴェン

アニーは、極端な録音嫌いだった、と後で知りました。1928年に活動を開始しているのに、メジャーレーベルに録音したのはたったこの8枚ぽっきりです。子供時代の私がよく知らないのも無理ないことだったかもしれません。

しかし、ここに聴く演奏はどれも素晴らしいものばかり。

モーツァルトの協奏曲なんて、演奏家の存在を忘れてしまうくらい、ひたすら音楽に奉仕するような演奏。それにしても20番の第3楽章カデンツァ部分をこれだけ情熱的に聴かせるピアニストってなかなか稀有だと思います。23番は反対に柔らかいタッチで、テンポを煽らず、デュナミークをなるべく抑制して弾いているところが素晴らしい。この曲の3楽章をいかにもロンドのようにはしゃいで弾き始めたり、暴力的に始められるとうんざりするのですが、アニーはまさに理想的な弾き方をしてくれます。

モーツァルトは本当にどれも素晴らしいのですが、やはり聴きごたえがあるのはベートーヴェンのソナタ集でしょう。

残念ながら全曲ではないのですが、主要どころはとりあえず押さえられています。ハッキリしたことは言えませんが、全集にならなかったのは、同時期にEMIでスタートしたバレンボイムのベートーヴェン ソナタ全集録音が影響しているのかもしれません。まあ、あれも素晴らしい全集だったので仕方が無いことではあるのですが、どうせなら両方完成させてほしかったですね。そうすれば、アニーの名声ももっと高まったかもしれません。

それにしても32番の最期のソナタが良いですね~。この曲は主観ですが、ベーゼンドルファーで弾くと音楽の深みが増して、特に第1楽章の威圧的な第1主題がすごく立派に聴こえるんですね。バックハウスとアニーの演奏は本当にこの箇所が素晴らしいと思います。第2楽章も最後の方でハ長調に回帰し、音符が小さく細かくなっていく過程が感動的で、マーラーの9番のようなカタルシスを感じさせてくれます。

「月光ソナタ」も名演。前に取り上げたソロモンほど文学的な表現ではありませんが、第1楽章の雰囲気はなかなかです。第3楽章のプレストは落ち着いてスピードを抑制し、1音1音をすごく丁寧に弾くところが特徴的。これだけはっきりとキーを叩くというか、音に変化を付けられるというのはすごい美点だと思います。

「ワルトシュタインソナタ」などは、そのような彼女の弾き方が最もプラスに働いた例と言えるのではないでしょうか。残念ながら音質が奥にこもりがちで、鮮やかな彼女の音を拾い切れていないのですが、目まぐるしくリズムが交錯する第1楽章、感動的な第3楽章のロンド主題など、爽快なテンポで鮮やかに処理していきます。返す返すも、この若き日の彼女の見事な演奏が明瞭な録音で収録できなかったことが残念です。

と、思いきや。

なんと後年、彼女がベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集を遺していたという結構有名な事実に、愚かな私は遅ればせながら気づいたのです。

それについて次章で書きます(笑)。

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