フルトヴェングラー ザ・グレートEMIレコーディングス(5)

異世界に誘うフルトヴェングラーの交響曲演奏

(BOX全体の収録内容については こちら をクリック)

Disc 14
モーツァルト:交響曲第40番ト短調K.550
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1948年12月、1949年2月、ウィーン、ムジークフェラインザール

チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74『悲愴』
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1938年10月、ベルリン、ベートーヴェン・ザール

 

Disc 20
ハイドン:交響曲第94番ト長調『驚愕』
ケルビーニ:『アナクレオン』序曲
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1951年1月、ウィーン、ムジークフェラインザール

シューベルト:交響曲第8番ロ短調D.759『未完成』
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1950年1月、ウィーン、ムジークフェラインザール(モノラル/セッション)

リスト:前奏曲S.97
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1954年3月、ウィーン、ムジークフェラインザール

 

これまでの4回で、このボックスのほぼメイン部分をご紹介してきたわけですが、まだ協奏曲や管弦楽曲の録音については触れていません。

ナチス裁判から救ってくれた生涯の友、メニューインとの共演集。戦中からパートナーを組んでいたドイツ・ピアノ界の重鎮、エドヴィン・フィッシャーとの「皇帝」。これら珠玉のような名演について語らないのは本来ならおかしいのですが、メニューインもフィッシャーもそれぞれ膨大な録音がボックス化されていますので、その機会に書こうと思います。

さて、“フルトヴェングラー ザ・グレートEMIレコーディングス”についてのご紹介も今回が最終回。巨匠の棒によるハイドン、モーツァルト、シューベルトの交響曲録音について書いてみようと思います。

収録されているのは、それぞれ愛称で「驚愕」、「ト短調」、「未完成」の3曲。言わずと知れた有名曲ばかりですが、近年の大オーケストラのコンサートで、これらを耳にする機会はとんと減りました。たまに、ベルリン・フィルハーモニーの動画配信で、モーツァルトの交響曲を演奏するのに出くわしますが、編成をピリオド・アプローチ並みに減らし、小気味よく鳴らすのが主流のようです。

昔みたく、かなり豊かな編成でロマンティックに演奏するケースは稀になりました。それだけに、ここに収められた演奏はほんの少し前まで当たり前だった古き佳きスタイルの貴重な証言と言えます。

ハイドンの「驚愕」は、ウィーン・フィルの魅力たっぷりの演奏。巷間、ハイドンの交響曲の演奏は難しい、と言われますが、確かに簡明な書法で書かれているので、何もしないとつまらないし、だからと言ってやりすぎるとハイドンらしさを損なってしまいます。実際に演奏する方にお聞きしたら、私たちが思っている以上に入り方や他パートと合わせるのが難しいというのもあるそうです。

この演奏を聴いていると、1楽章から何気ないフレーズに、特にフルートと第1ヴァイオリンが濃厚な表情を付けています。有名な第2楽章も、単純なリズムを繰り返す主要主題より、第1ヴァイオリンのオブリガートの美音の方が際立っており、その後もフルートを中心としたパッセージや、哀感を込めた低弦のメロディが主張するなど、この楽章が変奏曲型式、かつかなりロマン派の書法に接近した斬新な作品であることを知らしめてくれます。

続いて、モーツァルトの「ト短調」は1948年、ウィーン・フィルハーモニーとの録音。かねてから問題作として知られてきたレコードです。何が問題かというと、一聴して分かるのですが、ものすごく速いテンポ。小林秀雄の言う「疾走する哀しみ(実はこの比喩は弦楽五重奏曲に向けられたものでしたが)」を体現したかのような演奏です。

もちろん、印象的な第1楽章冒頭の楽譜の指定はアレグロ・モルトですから、テンポ的に間違いではありません。しかし、異常に音価が短く、ぶっきら棒な印象を与える冒頭と言って良いでしょう。ちなみに、ピリオド楽器の演奏家たちの同じ部分を聴いてみると、ホグウッドやガーディナー、アーノンクール、それぞれかなり速いのですが、フルトヴェングラーにはわずかに及びません。なお、ほとんど同じだったのは、ブリュッヘンの新盤だったのは意外でした(0:20)。

続いて第2楽章は極めて遅く、引き摺るように弦を弾かせながら、不気味なほど瑞々しくフルートを際立たせるのが印象的です。ウィーン・フィルの音色は震えるほど美しく、陶酔的な魅力を湛えているのですが、反面、見てはいけない世界というか、ただならぬ怖さを内面に含んだ演奏と言って良いかもしれません。

同じことが第3楽章のトリオにも言えます。凄絶な主旋律の演奏後、弦、管によりこの世ならぬ美しい世界が展開され、聴き手はその危険な誘惑にまんまと引き摺り込まれるのですが、第2楽章と違うのは夢心地は再び主旋律の登場によってすっぱりと断ち切られるのです。何だか、ベートーヴェンの「第9」の4楽章序盤を想起させますね。あと、結尾のフルートは、他の指揮者ならデクレシェンドをかけたり、あのセルでさえ微妙なルバートをかけたりしているのですが、フルトヴェングラーはインテンポのまま終楽章に向かいます。

そしてその終楽章はフルトヴェングラーの独壇場。ブラームスの「第4交響曲」の時と同様、激しくのたうち回りながら疾走し、ラストは綺麗に決めて全曲を閉じます。

ひょっとしたら、フルトヴェングラーはこの曲にベートーヴェン的なものを持ち込もうとしたのかもしれません。しかし、この曲にはドイツ音楽のような明確な形式性、思想的な明確さがなく、むしろモーツァルトの諧謔的な部分が満載な曲なので、聴き手によっては居心地の悪さを感じるのかもしれません。私は大好きな演奏ですが…。

むしろ、フルトヴェングラーの劇的な音楽づくりが最も功を奏したのはこの「未完成」でしょう。冒頭の動機から怨念のような重さを背負っていて、その後の展開が期待されるのですが、意外と第1主題も第2主題もあっさりとしています。ところが油断していると、ピッツィカートの下降音型の後、ヴァイオリンが冒頭の動機をオクターブを上げて再現するあたり(3:00~)から徐々にフルトヴェングラーらしさが全開となります。そして何度も山を築きながら、最後は悲劇的な叫びをあげて、静かに楽章を終えます。

第2楽章は転調の天才、シューベルトの面目躍如。微妙な光の明滅が素晴らしいのですが、フルトヴェングラーはそのあたりは淡々とこなしていきます。素晴らしいのは、他の指揮者が何の変哲もなく過ごす個所のデュナーミクに気を配ることで音楽に得も言われぬ深みを与えていたり、ラストのピッツィカート、デクレシェンドを微妙に操ることで、シンフォニーとしての造型を感じさせるところです。私の勝手な妄想ですが、マーラーの第9交響曲を想起させる演奏に感じます。ロマン的な叙情味たっぷりの演奏をやると思いきや、この曲が前衛的な交響曲であることを思わせる優れた解釈です。

もし、この演奏を聴いて肩透かしを感じた方は、むしろ同じウィーン・フィルによる、カール・シューリヒト指揮のディスクを聴くべきでしょう。いわゆる泣ける演奏です。

それにしてもこのブログを書くにあたり改めてフルトヴェングラーの演奏を聴いてみて、本当にこの指揮者は20世紀の巨人であったと再認識しました。単なるドラマティックな演奏の申し子ではなく、曲のこと、作曲家のこと、そしてその背景について常人では到達できない叡智を持ち、かつナチスドイツが席巻した時代というものを体現した演奏を後世に遺した、まさに最高の芸術家であったことは間違いありません。

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