12月の試聴室 ハイティンクの引退を惜しむ

本物の音楽を聴かせてくれた悲運の巨匠

私がこの原稿を書いているのが2019年の大晦日。

今年もジェシー・ノーマンさん、マリス・ヤンソンスさんをはじめ、多くの有名アーティストが惜しまれつつこの世を去りました。そして引退も…。

オランダの名指揮者、1929年生まれのレジェンド、ベルナルト・ハイティンクが9月に引退してしまったのです。

最近まで元気にベートーヴェンの「第9」やマーラー、ブルックナーの大曲を振ってくれていただけに、とても残念なニュースでした。

思えば、まだまだ気力十分なのに引退してしまったアーティストはこれまでにもたくさんいます。

古くはトスカニーニ。彼は1954年に引退しますが、亡くなる1957年まで元気な姿を見せていました。ステレオ録音は1955年に一般的になっているので、これは人類の一大損失と言ってもいいかもしれません。

同じイタリア出身の大指揮者、ヴィクトル・デ・サバタも没年の1967年の10年前、1957年に病気で引退しています。そして彼の代役を務めたアシスタントのカルロ・マリア・ジュリーニも没年より7年早い1998年に引退してしまいました。

他にヴァイオリニストのハイフェッツも1972年に引退(1987年没)。その後のキャリアを後進の指導に尽くしています。

最近では、ピアニストのアルフレート・ブレンデル、マリア・ジョアン・ピリスも、衰えなど微塵も感じさせないのに、引退してしまったのが非常に残念でした。

プロ野球の世界でも、40歳を迎えた名選手がそのまま現役を続けるか、指導側に身を置くか、厳しい岐路に立たされます。ボロボロになるまでやるのも生き方ですし、席を後ろの若手に譲って、晩節を汚さないのも正しい選択だと言えます。

クラシック音楽演奏もある意味、人が己の身体を酷使して能力を出し尽くす運動競技の一種ですから、同じことが言えるでしょう。例えば、往年の技術が完全に衰えている老大家が、ラフマニノフやチャイコフスキーを弾くのは無謀というほかありません(稀代の魔匠・ホロヴィッツは例外)。

ただし、野球と違うのはその衰えを円熟という言葉に置き換え、絶賛するジャーナリズムやファン心理が一定数、存在することです。これは、演奏者にとっても聴き手にとっても不幸なことでしかありません。なぜなら、衰えという避けられない事実を歪め、しかもその衰えを正しいものと聴き手に意図的に誤認させているからです。さらにこうした賞賛の弊害は、老巨匠の演奏がすべて絶対で、若者の演奏は未熟という偏った音楽観に繋がることにもなり、慎重に忌避せねばなりません。

今日のハイティンクに関する寄稿もそうはならないように、十分気を付けて執筆したいと思います。

とはいえハイティンクの場合、これまで日本のクラシック・ジャーナリズムにおいて、異常なまでに貶められ、まともな評価をされてこなかった経緯もあり、例えば「無能」とか、「ただ楽譜をなぞっているだけ」とか、酷いのになると「あんな顔でいい演奏ができるはずがない」とか、名誉棄損級の暴言まで投げつけられていました。

私は彼がウィーン・フィルハーモニーと来日した時のブルックナーの「第7交響曲」、アンコールで演奏されたヨゼフ・シュトラウスの「うわごと」の冠絶した美しさ、そしてコンセルトヘボウとの堅実な名演の数々に痺れていたので、そうした悪辣な批評には心底怒っていたものです。

もし彼に実力がなければ、若くしてコンセルトヘボウの常任指揮者に指名されなかったでしょうし、カラヤン没後のベルリン・フィルハーモニーの音楽監督の決選投票に彼の名前はなかったでしょう。

ですから、彼がどれだけ凄い指揮者であるか。ここで強調しても、全然褒め足りないと思います。僭越ですが、私がイチオシのハイティンクの名盤をここで挙げ、皆様に引退する彼の凄さを少しでもお伝えできれば幸いです。

ワーグナーの超大作「ニーベルングの指環」に名門EMIが初めて取り組んだとき、指揮者として指名したのがハイティンクでした。デッカのショルティ、グラモフォンのカラヤンと張り合うならば、サヴァリッシュやクライバーが良かったのではないか、と当時のレコード芸術の評文に書かれているくらい、この時の抜擢は異例扱いされています。

しかし、劇場で古典から現代までじっくりと実力を磨いてきたハイティンクの統率ぶりはさすが。全体的にゆったりとしたテンポで、フルトヴェングラーのようなドラマティックな演奏とは真逆です。それでも雄大な音楽ドラマが見事なまでに精緻に再現され、当代きっての名歌手たちの凄みのある演技とバイエルンの色彩豊かなオーケストラの響きを存分に楽しむことができます。特に、クライマックスのワルハラ城が焼失し、新たな時代へ踏み出すシーンの感動は、ハイティンクのびくともしない、動かないテンポの賜物だと、何度聴いても感動してしまいます。

マーラー: 交響曲選集 (第1-7番, 10番アダージョ, さすらう若人の歌)<タワーレコード オンラインサイトへ移動>

実は2019年現在、ベルリン・フィルハーモニーによるマーラーの交響曲全集録音はありません。もし、クラウディオ・アバドの1996年の来日公演時における「復活」がオーソライズされれば、幻の全集完結となるのですが、かなり難しいでしょう。

もはや忘れられかけていますが、ベルリン・フィルのマーラー全集プロジェクトは過去に試みられたことがあります。その指揮者として指名されたのは、何とこれまたハイティンクだったのです。

残念ながらこのプロジェクトは「第8」、「第9」、「大地の歌」を残して頓挫してしまいますが、どれも素晴らしい出来。ベルリン・フィルの圧倒的なサウンド、唸る低弦、色彩豊かな木管、輝かしい金管、壮絶なティンパニ。このオーケストラのマーラーへの適性を見せつけただけでなく、細部のテクスチュアを精緻に堅実に表現する彼のタクトは本当に素晴らしいです。「復活」のラストの聴きごたえなんて、バーンスタインと比べても決して聴き劣りしません。

ブルックナー: 交響曲第3番~第5番, 第8番, テ・デウム<タワーレコード オンラインサイトへ移動>

天下のウィーン・フィルは、80年代初めにロリン・マゼールとマーラーの交響曲全集を完成しています。また、すでに70年代には「復活」を除く全ての交響曲を、バーンスタインとともに映像収録していました(「大地の歌」は録音のみ)。

ところが、ベルリン・フィルとは逆で、ブルックナーの交響曲全集を今もって完成していません(2019年現在)。変則的に、当時の若手指揮者と老成したブルックナー指揮者たち、メータ、アバド、ベーム、ホルスト・シュタインのウィーン・フィル指揮録音を搔き集めた妙な全集は発売されていますが…。

そんな折、フィリップス・レーベルが80年代半ば、ベルリン・フィルのマーラーとほぼ同時並行で、ウィーン・フィルのブルックナー交響曲全集に取り組んだことをご存知でしょうか。その指揮者がこれまたハイティンク!

剛毅でパワフルなマーラーの時と若干異なり、ブルックナーでの彼のスタンスは師・オイゲン・ヨッフム流の繊細でスケール豊かなもの。何も足さずなにも引かず。しかし、ブルックナー演奏に必要な大きな呼吸感は完璧に備わっています。そしてウィーン・フィルの眩いばかりのサウンドが身に染みるようで、言葉は悪いですが、ベーム、カラヤン、アバド、ジュリーニらとのブルックナー録音では時にのっぺりした印象もあったのに、見違えるような充実ぶりです。


※こちらはシカゴ交響楽団との共演盤です。

残念なのは「7番」が収録されていないこと。1997年来日時のあの演奏は涙なしには聴けないほど澄み切った音楽で、第2楽章アダージオの開始部なんてゾゾっと背筋が寒くなったのを覚えています。豊饒なトゥッティから自然に数本の楽器の際立った音に減衰させるオーケストラ・バランスの見事さ、息を呑むようなテンポ・ルバートといい、本当に素晴らしかった。

往年の名手たちが顔を揃えるウィーン・フィル。68歳とまだまだ気力もあり、これからボストン交響楽団やロンドン交響楽団との新たなパートナーシップで名演奏を繰り広げていくハイティンクの無駄のないタクト。これはNHKに映像も残っているはずなので、ぜひ製品化してほしいと思います。

ところで、最近とても素晴らしいニュースを耳にしました。ハイティンクの一連の引退公演。ザルツブルクや、彼の出発点であるプロムスなど、様々な場所で惜しまれながら行われましたが、何とそのパートナーをしばらく競演が少なかったウィーン・フィルが務めたとのこと。しかも曲目はブルックナーの「第7」というではありませんか。

これはぜひSACDかBlu-rayで発売してほしい、と切に願います。キュッヒルもヘッツェルもシュミードルもいなくなった、そして女性やウィーン人以外も加わった若きウィーン・フィルハーモニーと彼が紡ぎ出したブルックナーがいかなるものになったのか。本当に興味深いことです。

堅実な音楽表現において不世出の存在であったベルナルト・ハイティンクさん。本当にありがとうございました。そしてお疲れ様でした。

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