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愛弟子カガンとの充実したヴァイオリン・ソナタ集
スヴャトスラフ・リヒテル EMIレコーディングスのご紹介も今回で3回目になります。
オレグ・カガン(1946年11月22日-1990年7月15日)といっても、ほとんどの方は「誰?」という感じでしょう。
しかしこの方、ある大変有名な演奏家の夫君にあたります。
そう、いまや全世界をまたにかけ、大活躍のチェリスト、ナターリャ・グートマンの亡き夫だったのです。
それだけではなく、彼自身も妻に勝るとも劣らない有望なヴァイオリニストでありました(43歳で早逝)。
カガンは、ロシアのユジノサハリンスク(樺太)生まれ。1990年に亡くなっていますから、一生まるまるソビエト社会で過ごしたことになります。早くから優れた才能を示すものの、ウィーンやベルリンで華々しく活動するわけでなく、レコーディングもソ連の国営レコード会社、メロディアを中心としたために、生前はやや地味な印象がありました。
それでも、妻のグートマン、ヴィオラの名手ユーリ・バシュメットとともに御大リヒテルのお眼鏡にかない、一種のファミリーを形成したことで、様々な室内楽の競演盤がマニアの目を惹き、晩年はコアなファンを獲得していました。特にカガンは巨匠の大のお気に入りだったため、多くのソナタ演奏を遺しています。
そもそも、世界で一、二を争う実力者で、哲学者風のミステリアスさを醸し出していたリヒテルに見初められただけでも凄いのに、ソナタの共演まで許されたのですから、カガンがいかに優秀なヴァイオリニストだったかは想像頂けると思います。
このボックスには、そのカガンとリヒテルの共演で、CD4とCD10にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタが、CD5でモーツァルトのヴァイオリン・ソナタが収められています。
一聴してまず印象に残るのは、カガンのエッジの効いた艶やかで強烈な自己主張をする音です。これは同じソビエトのヴァイオリニスト、オイストラフのパワフルで分厚い音とはまるで趣が違います。オイストラフもまた、リヒテルとソナタを共演した数少ないヴァイオリニストですが、彼の弾くモーツァルトにはオイストラフの個性がどっしりと根を張っています。
ところが、このボックスに収められたカガンの弾くモーツァルトのヴァイオリン・ソナタからは、そうした主張が全く感じられない。それは決して無個性・イノセンスなのではなく、聴こえてくる音がまさに正真正銘モーツァルトの音!なのです。
ボウイングが非常になだらかで、力むことなく歌うようなフレージングが本当に素晴らしい!著作権の関係から貼り付けませんが、YouTubeにカガンとリヒテルが共演する同じモーツァルトの映像が上がっています。それを見ると、弓を動かす右手の手首の使い方が実に柔らかく、弓を早く動かす際の身体のキレ、使い方は体操選手のようなしなやかさです。
一方、ピアノのリヒテルは若獅子を温かく見守るように伴奏に徹し、丁々発止というより、和やかに呼吸を合わせてモーツァルトの音楽を愛おしむように弾いています。音楽がベートーヴェンに代わっても、カガンの天衣無縫なヴァイオリンに合わせて、まさに「春」の息吹を感じさせるようなピアノを聴かせてくれます。
「鱒」の決定盤のひとつ、ボロディンSQとの共演
☆シューベルト:ピアノ五重奏曲イ長調D.667『鱒』
ボロディン四重奏団、ゲオルク・ヘルトナーゲル(コントラバス)
録音:1980年
このボックスには、リヒテルが遺した室内楽のレコードの中でも屈指の出来栄えと言われるシューベルトの「鱒」も収められています。
「鱒」の名盤と言えば、アルフレート・ブレンデルを囲んで行われた下の2枚が良く知られていますね。
この2枚は、理知的なブレンデルを中心にアンサンブルをコンパクトにまとめ、シューベルトの叙情的な部分を大いに引き出した名盤だと思います。
対してこのリヒテル盤は、共演者も猛者揃いのボロディン四重奏団であることからか、個性をぶつけあうような緊張感を孕んでおり、同時にのびのびとした部分は本当におおらかな名盤だと言えるでしょう。なお、この録音はオーストリアのホーエネムス城で毎年行われる有名なシューベルティアーデの1980年のライブ録音で、生で聞けた人は心から羨ましく感じます(笑)。
それにしても、ヴァイオリン(ミハイル・コペルマン)の何という自己主張の強さでしょうか!まさにロシアの音というべき弾き方・音色で、有名な第4楽章は彼のヴァイオリンがまさしく『鱒』のようにアンサンブルを縦横無尽に泳ぎ回ります。
また、ピアノのリヒテルもパワフルさを強調するより、彼が長年培ってきた細かい技巧を駆使し、玄人を唸らせるようなテンポや間の取り方を随所に施しています。音色の美しさは飛びぬけており、技術的に難関と言われる箇所もいとも簡単に乗り越え、彼が室内楽でも一級の腕前を披露できることを証明しています。
あと、このディスクほどシューベルト特有の『dim.』を、デクレシェンド+リタルダンドとして表現している盤はない、と私は思います。ただ単に音量を減衰するのではなく、テンポを落とすことで一見明るい曲の中に微妙な陰影をつけ、シューベルトの二面性的な音楽の怖さを引き出し、現代音楽にも通ずる斬新なメッセージ性を認識させてくれることも特筆に値します。
まさに、5人が各々の個性を出しつつ、前へ前へと川を上る「ます」のように推進し、シューベルトの神髄にも迫る名演奏と言えるでしょう。