日本に本場のオペラがやってきた!歴史的事件の記録
今回の記事で採り上げるディスクは、厳密にはひとまとめのボックスではないのですが、ニッポン放送開局65周年記念として同時期に待望の復刻が成されたので、書いてみることにしました。
まだ敗戦の傷跡が深い1963年。和暦で言うと昭和38年です。東京日比谷に「日生劇場」がオープンしました。そのこけら落としに招聘されたのが、ドイツの名門歌劇場、ベルリン・ドイツ・オペラです。
実は、それ以前にも世界的な歌手を招いたオペラ公演は日本でも行われていました。その代表的なものが、1956年からNHKが指揮者、演出家、ソリストを本場から招き、1976年まで行ったイタリア歌劇団の公演です。
イタリア歌劇団と聞いて、「え?どこそれ」と思われた方もいるでしょう。そうです、イタリア歌劇団はあくまでNHKが用意した臨時のチームで、オーケストラはNHK交響楽団、合唱は国内の様々な団体から搔き集めています。
でも侮ることなかれ。歌手のメンツが本当にすごい。よく日米野球で、本場アメリカでも実現できないドリームチームが組織されることがありますが、それに匹敵する豪華な顔ぶれです。
マリオ・デル・モナコ、ジュリエッタ・シミオナート、レナー夕・テパルディ、フェルッチョ・タリアヴィーニ。指揮もヴィットリオ・グイ、アルベルト・エレーデと歴戦の猛者揃い。超円安の時代にどうやって呼んだんだ、と感心します。
そして、このイタリア歌劇団の公演は後年、日本にオペラ上演を定着させた歴史的偉業と評価されるほどの大成功となります。その証拠にこの後、続々と海外の歌劇場が招聘されるようになり、日本に空前のオペラブームが到来しました。
そういう空気の中、日本国民の熱い期待で迎えられたのが、1963年のベルリン・ドイツ・オペラです。今度はオーケストラも合唱も本場から招聘。さらに指揮者は、音楽監督のハインリヒ・ホルライザー、当代最高の巨匠であったカール・ベーム、新進気鋭の鬼才と呼ばれていたロリン・マゼールの3人。
これだけでも凄いことですが、さらに注目すべきは、マゼールが指揮した「トリスタンとイゾルデ」、ホルライザーが指揮した「ヴォツェック」はこの時、日本初演だったのです。そんな時代であり、まさにこの公演は事件でした。
ベートーベン「フィデリオ」
10月20日(日)、24日(木)、29日(火)、11月5日(火)ドン・フェルナンド /ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ウィリアム・ドゥリー
ドン・ピツァロ/ヴァルター・ベリー、グスタフ・ナイトリンガー
フロレスタン/ジェームズ・キング
レオノーレ/クリスタ・ルートヴィヒ
ロッコ/ヨーゼフ・グラインドル
マルツェリーネ/リザ・オットー
ヤキーノ/ドナルド・グローブ
第一の囚/人 バリー・マックダニエル
第二の囚人/マンフレット・ロエル
指揮:カール・ベーム(合唱指揮:ヴァルター・ハーゲン=グロル)
演出:グスタフ・ルドルフ・ゼルナー
舞台装置・衣装:ヴィルヘルム・ラインキング
合唱指揮:ヴァルター・ハーゲン=グロルモーツァルト「フィガロの結婚」
10月21日(月)、23日(水)、28日(月)、11月2日(土)アルマヴィーヴァ伯爵/ディートリッヒ・フィッシャーーディースカウ
伯爵夫人/エリザベート・グリュンマー
スザンナ/エリカ・ケート
フィガロ/ヴァルター・ベリー
ケルビーノ/エディット・マティス
マルツェリーナ/パトリシア・ジョンソン
バジリオ/ユーリウス・カトナ
ドン・クルチオ/マーティン・ヴァンティン
バルトロ/ペーター・ラッガー
アントニオ/ヴァルター・ディックス
バルバリーナ/バルバラ・フォーゲル
指揮:カール・ベーム(合唱指揮:ヴァルター・ハーゲン=グロル)
演出:グスタフ・ルドルフ・ゼルナー
舞台装置・衣装:ミッシェル・ラファエリーベルク「ヴォツェック」
10月25日(金)、30日(水)、11月3日(日)、6日(水)ヴォツェック/ヴァルター・ベリー、ウィリアム・ドゥリー
鼓手長/ハンス・バイラー
アンドレス/ローレン・ドリスコル
大尉/ヘルムート・メルヒャルト
医師/ヴァルター・ディックス
第一の徒弟職人/マンフレート・ロエル
第二の徒弟職人/ペッカ・ザロマ
白痴/マーティン・ヴァンティン
マリー/カースティン・マイヤー
マルグレート/アリス・エールケ、長野羊奈子
指揮:ハインリヒ・ホルライザー(合唱指揮:ヴァルター・ハーゲン=グロル)
演出/ヴォルフ・フェルカー
舞台装置・衣装/テオ・オットーワーグナー「トリスタンとイゾルデ」
10月27日(日)、11月1日(金)、4日(月)トリスタン/ハンス・バイラー
イゾルデ/グラディス・クフタ
マルケ王/ヨーゼフ・グラインドル
クルヴェナール/グスタフ・ナイトリンガー
ブランゲーネ/カースティン・マイヤー
メロート/バリー・マックダニエル
若い水夫/ドナルド・グローブ
牧童/マーティン・ヴァンティン
舵手/ヴァルター・ディックス
指揮:ロリン・マゼール(合唱指揮:ヴァルター・ハーゲン=グロル)
演出・装置:ヴィーラント・ヴァーグナー合唱:ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
管弦楽:ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団
こちらもイタリア歌劇団に負けない豪華顔ぶれ。フィッシャー・ディースカウ、ベリー、マティス、ナイトリンガー、グラインドル、キング、ルートヴィヒ…。まさに千両役者揃い、当時の聴衆にとっては夢のような出来事だったでしょう。
しかも「トリスタン」の演出はヴィーラント・ヴァーグナー。当時最先端の新バイロイト様式を東洋の島国で見ることができたわけです。贅沢どころの騒ぎではありません。
そして何より、公演の目玉であったカール・ベームの指揮が期待に違わぬ素晴らしさなのです。「フィガロ」の運びの良さと全体に漂う幸福感を何と讃えたら良いでしょう!
このコンビでは上記のスタジオ録音が名盤として知られますが、個人的には独特の高揚感を持つこのライブ盤の方に魅力を感じます。スタジオ録音の方は、プライのフィガロ、マティスのスザンナ、ヤノヴィッツの伯爵夫人、トロヤノスのケルビーノと軽妙さが際立つ快演ですが、来日公演の方はベリーやグリュンマーなど往年の名歌手たちが風格に満ちた歌唱を繰り広げ、ベームの要所を締めるアンサンブルづくりと完璧な調和を見せています。
では、もうひとつのフィデリオの方はどうかと言いますと、この時代のベームのもうひとつの特徴、燃え上がるようなパッションとドイツ的な重厚さに圧倒される名演中の名演です。
序曲からスケールが豊か、ベートーヴェンの音楽を知り尽くした指揮者ならではの安定感に痺れます。ティンパニがとても特徴的で、激しすぎるのでは?と思うほど。また、暗いドラマを経てレオノーレ序曲からドン・フェルナンド登場、壮大なクライマックスに至るまでのエネルギーの開放は、他では聴いたことのない凄まじい盛り上がり!晩年の穏健なベーム翁からは想像もできないほど、オケも歌手も一気呵成に突き進む壮絶な演奏です。
そんなベームの棒についていくオーケストラ、歌手も凄いのですが、やはり合唱のパワーに圧倒される方は多いのではないでしょうか。昨今のスウェーデン放送合唱団とかエリック・エリクソン室内合唱団の精妙窮まるアンサンブルとは比べものになりませんが、この真剣勝負のような歌いぶりには古い録音ながら心を揺さぶられてしまいました。
それでは次に、マゼールの「トリスタンとイゾルデ」を聴いてみましょう。
それにしても序曲から丁寧で精妙な演奏だと感心します。ともすればベームは多少粗削りなアンサンブルを強引にドライブするきらいもありましたが、マゼールは反対に細部へのこだわりがすごい。暗く不安な船上の水夫の歌、イゾルデの動揺、一転して媚薬を呑んだトリスタンとイゾルデの激しい「愛の二重唱」。こんな音楽を初めて目の当たりにした日本の聴衆は、どのような思いで舞台を見ていたのでしょうか?
第3幕の前奏曲のカタストロフの予兆も恐ろしいほど美しく、その後のドラマティックな展開もマゼールの起伏の大きい指揮が冴えわたり、聴きごたえ十分です。ナイトリンガーのバイロイト仕込みの義絶的クルヴェナール、大団円のグラディス・クフタの「愛の死」は見事としか言いようがありません。
最高の名盤とまでは言いませんが、若きマゼールの貴重なオペラ録音として聴き続けたいものです。
最後はベルクの「ヴォツェック」。1963年の日本でこの演目を選んだことは、ある意味賭けではなかったでしょうか。
指揮はベームではなく、音楽監督のホルライザーが担っています。
再生した瞬間、これまで聴いてきたオペラと雰囲気がガラッと変わるのが分かります。暗く冷たく、ピーンと張りつめた空気が伝わってきます。
当時の日本なんて、ヴィヴァルディやベートーヴェンが聴かれ始めたばかりで、マーラーやブルックナーさえほとんど知られていません。新ウィーン楽派のアルバン・ベルクなんて、海の向こうで実験的に始められた未知の音楽領域です。そのベルクの斬新な響きのオペラを、ホルライザーは1963年の日本でやってのけたのでした。
これは、当時の来日歌劇場の記録という以上に、すぐれた第一級の「ヴォツェック」の演奏です。残酷な世間に苛まれるマリーの祈りとヴォツェックのアリ地獄のような境遇。そしてきわめて陰惨なラスト。ホルライザーの棒は精確を極め(暗譜で指揮したと伝わっています)、緊張感の高まる場面では恐怖感を煽るかのように力強い表現を聴かせます。
歌手も熱演を聴かせますが、すでにこの役を掌中に収めていたヴァルター・ベリーのヴォツェックは、この社会からUngezieferのような理不尽な扱いを受けている男の複雑な内面、弱さというものを完璧に表現していて素晴らしいです。同じ公演で、フィガロとドン・ピツァロを演じていたとはとても思えません。
ちなみにベリーは、1955年のベーム盤、1966年のブーレーズ盤でも「ヴォツェック」を歌っており、非常に完成度の高い歌唱を聴かせていました。これらも非常に聴きごたえのある演奏なので、ご一聴をお薦めします。
最後に今回のディスクについて。
これら日生劇場における一連の記録は、1988年にポニー・キャニオンから発売され、クラシックファンの間でものすごく話題となりましたが、その後まもなく廃盤となり、35年近く、市場から消えてしまいました。
ニッポン放送開局65周年記念として、久々に登場したこれら記録は、丁寧なマスタリングでいっそう聴きやすくなり、また値段も当時は1枚当たり2800円くらいしましたが、大幅に安くなっています。
それにしても、海外でも劣悪なモノラル・ライブが多い1960年代初頭に、これだけのクオリティの音質を実現した日本の録音技術はすごいです。1957年、カラヤン&ベルリン・フィルの初来日時のNHK音源もステレオですし、カラヤン&ウィーン・フィルの1959年日本特別演奏会に至ってはステレオの映像が残っています。
こうした貴重な文化遺産が今も残っていることに、音楽ファンとして心から感謝します。