9月の試聴室 2大巨匠のワーグナー

フルトヴェングラーの「ワルキューレ」、クナの「パルジファル」

昨今、日本中からレコード店が消えているような気がします。

それも個人店というより、タワーレコード、HMV、新星堂などという大手老舗があっという間に撤退していった印象が強いです。個人的には、HMV渋谷店、タワレコ大阪マルビル店の撤退は衝撃でした。

おそらく皆さんのご近所の大型店からも、テナントのCDショップが次々と撤退しているのではないでしょうか。

代わって、中古CD市場は盛況のようです。先日も、とある大型書店の一角で「中古ジャズ・クラシックCD&レコード市」が開催されていましたが、狭い店内がぎゅうぎゅうになっていました。

今や手軽な音楽配信や、YouTubeでの鑑賞が主流ですが、やはりCDやレコードには、ジャケットや解説も含めた「実物」の抗しがたい魅力というものが詰まっています。

アンドレ・シャルランによる名録音
若きカラヤンの「ばらの騎士」

20世紀に青春を過ごした世代にとっては、中古ショップやHMV、タワーレコードのオンラインショップ(またはamazon)は、21世紀にわずかに遺された夢の場所であり、また最近現れた若いLPレコードファンたちも、そうした場所に何か未知の桃源郷の香りを感じているのかもしれません。

今回の試聴室では、今のクラシックレコード業界の危機なんてまるで予測されていなかった時代。まさにクラシックレコードの全盛期に登場し、多くの聴き手にとって長く宝物となった2セットをご紹介します。この2大名盤こそ、まさにレコードの醍醐味というものをふんだんに内包した、最高の文化遺産と言えるでしょう。

 

巨匠のドラマティックな「ワルキューレ」

ワーグナー:『ワルキューレ』全曲

ブリュンヒルデ:マルタ・メードル
ジークリンデ:レオニー・リザネク
ヴォータン:フェルディナント・フランツ
ジークムント:ルートヴィヒ・ズートハウス
フリッカ:マルガレーテ・クローゼ
フンディンク:ゴットロープ・フリック、他
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ヴィルヘルム・フルトヴェングラー()

録音時期:1954年9月28日-10月6日
録音場所:ウィーン、ムジークフェラインザール
録音方式:モノラル(セッション)

 

1枚目は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが1954年にウィーン・フィルハーモニーと制作したワーグナーの楽劇「ワルキューレ」全曲録音です。

それまでフルトヴェングラーはセッション録音に懐疑的だったようですが、1952年の「トリスタンとイゾルデ」の完成度の高さによって考えを改め、引き続き、「ニーベルングの指環」全曲録音という大プロジェクトに取り組みます。

ところが、直後にフルトヴェングラーは急逝してしまい、この大構想は果たされませんでした。それでも、唯一残された「ワルキューレ」は、モノラル完成期の技術力が黄金期のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の豊かな音色と筆舌に尽くしがたいアンサンブルを見事にとらえており、豪華絢爛なワーグナー・サウンドを存分に楽しめます。

フルトヴェングラーの指揮は、全体を通じて物語の展開を巧みに描写しており、特に第1幕のジークムントとジークリンデの出会いの場面や、第3幕のヴォータンとブリュンヒルデの別れの場面など、ドラマの核心部分での音楽表現は圧巻です。

また、歌手陣もオペラ黄金期の巨星たちで固められています。

大歌手フラグスタートがEMIから去ったことでブリュンヒルデ役を担うことになったマルタ・メードルは、力強く輝かしい声質がこの役柄にぴったりで、特に第3幕のパワフルな歌唱や、ヴォータンとの対話シーンでの表現は秀逸です。

マルタ・メードル

巨匠の「トリスタン」では大きな存在感を示したズートハウスは、ここでも温かみのあるテノールでジークムントの英雄的な側面と人間的な弱さを巧みに表現しています。第1幕の「冬の嵐は去りぬ」は特に印象的です。

フンディング役を務めるのは悪役(笑)で有名なゴットロープ・フリック。彼の威厳に満ちた低音はこの役にピッタリ。宿敵を前にしても紳士然と振る舞い、それがもとで苦難に遭う「悩める人、フンディング」を説得力豊かに演じます。

この他、繊細なリザネクのジークリンデ、人間味あふれるクローゼのフリッカなど聴きどころ満載。これらの歌手たちの熱演は、フルトヴェングラーの音楽解釈と齟齬なく見事に融合し、作品全体の魅力を一層高めています。

ただ、これだけの熱演を聴いてしまうと返す返す、その後完成したであろう「指環」全曲録音プロジェクトが巨匠の死によって断絶したことが悔やまれます。

とは言え、フルトヴェングラー亡き後にも「指環」全曲録音を委ねられる偉大なマエストロはもう一人いました。そう、ハンス・クナッパーツブッシュです。

 

バイロイトの儀式であったクナの「パルジファル」

ハンス・クナッパーツブッシュ

戦前から劇場でワーグナー演奏にかけて当代随一の演奏を聴かせ、戦後もバイロイト音楽祭再開の目玉としてワーグナー家から招聘されるなど、クナッパーツブッシュの実力と名声は折り紙付きでした。

しかし、彼の性格は豪放磊落で扱いにくいところがあり、スタジオに何日も籠って、プロデューサーからネチネチ言われながら長大な「指環」全曲を録音してもらうなんて無理筋。結果として最初のステレオ・セッション「指環」レコードの指揮者に選ばれたのはゲオルク・ショルティでした。

ワーグナー「ニーベルングの指環」全曲 ショルティ指揮

ショルティとデッカは歴史的偉業というべき、見事な「指環」全曲録音を完成します。ところがコアな音楽ファンたちは「クナッパーツブッシュの演奏はもっとすごかったはずだ!」と、音質の悪い1950年代から60年代のライブ録音を血眼になって探し始め、結果、何種類ものCDが登場。オーストリア放送協会によるオーソライズ盤まで出るなど、クナッパーツブッシュの「指環」バブルは長く続きました。

 

オーソライズ盤の登場により、大昔の海賊盤に比べればだいぶマシな音質で聴けるようになりましたが、それでもクナッパーツブッシュの「指環」がステレオで遺されなかったのは痛恨事です。1954年に亡くなったフルトヴェングラーはともかく、クナッパーツブッシュは1965年まで生きたのですから…。

しかし、そんなクナッパーツブッシュも、良好なステレオでワーグナー畢生の大作を遺すことには成功しました。そう、あまりに有名な1962年、バイロイト実況録音による「パルジファル」です。

 

ワーグナー: 舞台神聖祝典劇「パルジファル」

アンフォルタス/ジョージ・ロンドン(バス)
ティトゥレル/マルッティ・タルヴェラ(バス)
グルネマンツ/ハンス・ホッター(バス)
パルジファル/ジェス・トーマス(テノール)
クリングゾール/グスタフ・ナイトリンガー(バス)
クンドリ/アイリーン・ダリス(ソプラノ)
聖杯騎士/ニールス・メラー(テノール)
聖杯騎士/ゲルト・ニーンシュテット(バス)
小姓/ソナ・ツェルヴェナ(ソプラノ)、ウルズラ・ベーゼ(アルト)、ゲルハルト・シュトルツェ(テノール)、ゲオルク・パスクダ(テノール)
花の乙女/グンドゥラ・ヤノヴィッツ(ソプラノ)、アニア・シリア(ソプラノ)、エルセ=マルグレーテ・ガルデッリ(メッゾ・ソプラノ)他

管弦楽:バイロイト祝祭劇場管弦楽団 合唱:同合唱団(合唱指揮:ヴィルヘルム・ピッツ)
指揮:ハンス・クナッパーツブッシュ

【録音】1962年8月 バイロイト音楽祭(ライヴ)

 

フィリップスによって録音されたこのバイロイト音楽祭の公演は、過去のクナッパーツブッシュの優れた「パルジファル」に比べても、さらに顕著な成熟が見られます。

彼の最大の特徴であるテンポの拡がり。それがここでは決して恣意的であったり、過度にドラマティックに感じることはありません。代わりに、舞台神聖祝典劇の精神的な核心を照らし出しながら、前進する勢いの感覚を維持するのに役立っています。この繊細なバランスは、特に第1幕の変容の音楽と第3幕の聖金曜日の音楽で顕著であり、クナッパーツブッシュのペース配分により、音楽が有機的に呼吸し、感動はより深く花開きます。

そして何より、バイロイト音楽祭管弦楽団のサウンドが素晴らしいですね。ともすれば、勝手流のクナッパーツブッシュの指揮に対し、驚くべき感受性と精度で応えています。金管セクションは壮大、特に儀式的な瞬間に輝き、弦楽器はより内省的な場面でビロードのような繊細さを聴かせてくれます。

クナッパーツブッシュのオーケストラの細部への注意は随所に見られます。第1幕の前奏曲における楽器のテクスチャーの層は見事に表現されており、各動機の断片が明確に表現されながらも、全体に継ぎ目なく統合されています。指揮者のダイナミクスの巧みなコントロールにより、静かな畏敬の瞬間がクライマックスの爆発と効果的に対比され、途方もなく広大な感情的・精神的な風景の感覚を生み出しています。

 

歌手も望みうる最高の水準です。

パルジファルのジェス・トーマスは、「純粋な愚か者」から悟りを開いた救世主への主人公にふさわしく、若々しい叙情的な声質を持っています。トーマスの凄みは、特に第2幕のクンドリーとの対決の場で発揮され、パルジファルの成長する意識と最終的な誘惑の拒絶が、声の色彩と抑揚を通じて明確に表現されました。

当時、最高のグルネマンツ歌手であったハンス・ホッターは、キャリアの晩年にあってもなお、驚くべき深さとニュアンスのあるパフォーマンスを披露。彼の豊かで権威ある声、テキストの読みは、この役の一つの模範演技と言えるでしょう。特に第3幕の聖金曜日の場面でのパルジファルとのやりとりは、超越的な高みに達しています。

アイリーン・ダリスのクンドリー、ジョージ・ロンドンのアンフォルタス、ナイトリンガーのクリングゾルも、この怪しい寓話の世界を崇高な精神的世界に塗り替えるに十分な、神がかりの歌唱です。

そして、バイロイト音楽祭合唱団が本当に素晴らしい。精緻で、崇高で、宗教的な感動さえ呼び起こします。例えば第1幕の聖杯の儀式と第3幕の聖金曜日の場面での美しさは空前絶後と言って良いのではないでしょうか?

このように、1962年の「パルジファル」のレコードは、ワーグナーの最後の傑作の決定的名盤と言えます。

ただ敢えて言うなら、最新のユニバーサル復刻盤より、80年代に発売されたフィリップスのCDで聴いて頂きたい。フィリップス盤は、茫洋としたバイロイト特有の音情感を再現しているのに対し、復刻盤は鮮明な音作りに変更されており、まるで違う印象になっているからです。

最終的には聴き手の好みになりますが、中古店でフィリップス盤を見つけられたら、即買いだと思います。

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