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Disc 09
ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調、K.466
ピアノ協奏曲 第21番 ハ長調、K.467
Disc 10
ピアノ協奏曲 第22番 変ホ長調、K.482
ピアノ協奏曲 第23番 イ長調、K.488
Disc 11
ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調、K.491
ピアノ協奏曲 第25番 ハ長調、K.503
Disc 12
ピアノ協奏曲 第26番 ニ長調、K.537「戴冠式」
ピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調、K.595
ヴラディーミル・アシュケナージ(ピアノと指揮)
フィルハーモニア管弦楽団
録音:1966年~1987年
何度聴いても美しいアシュケナージの後期傑作集
ウラディーミル・アシュケナージの弾き振りによるモーツァルトのピアノ協奏曲全集は、20番以降の後期の傑作集で圧巻の演奏を聴かせてくれます。個々の曲目では他にもっと凄いレコードも存在しますが、アシュケナージの安定した王道の弾きっぷり、珠を転がすような音色、フィルハーモニア管弦楽団の充実したサウンドは、モーツァルトの音楽から最良のものを引き出しています。
まず1曲目は、モーツァルト第2の宿命の調とも言われる「ニ短調」を用いた第20番K.466。
この曲といえば、忘れられない名盤があります。相当古い記録になりますが、ブルーノ・ヴァルターが1939年にNBC交響楽団と録音したレコード。実はかなりのピアノの腕前を持っていたヴァルターによる弾き振りです。
妖しい美しさの中に迫りくる破局の予兆。カール・ライネッケ(1824年6月23日 – 1910年3月10日)によるジャズのようなカデンツァ。天国的な美しさと翳りが交錯する第2-第3楽章。まさに最高に感動的な演奏です。それに比べると、アシュケナージ盤はゆったりとしてのどかで、悲愴味は足りないかもしれません。
その代り、例えば第2楽章のロマンスでアシュケナージが演出する悠長な感じは、優美な旋律線と違和感なくつながり、K.466という曲のリリックな側面を浮かび上がらせます。続く第3楽章のロンドでも緩急の巧みな操作、主題の反復・変奏の生き生きとした表現が過度な激情を抑え、この曲のピアノ協奏曲としての完成度の高さを浮き彫りにするのです。
次の第21番k.467は、まさにアシュケナージにピッタリの曲と言えるのではないでしょうか。第1楽章なんて、晴朗でおどけた表情を持つ一方、ト長調→ト短調→(ト長調の平行調である)ホ短調への転調、その狭間に置かれた階段上りとなだれ落ち等、ピアニストにとって、極めて技巧的な要求がなされます。
しかし、そんな難曲であってもアシュケナージはサラサラと弾きこなしていく。それがあまりに器用なものだから、彼を優等生的だとかイノセンスと謗る声もあるのでしょうが、素直にすごいです。特に、第1楽章の冒頭部に明滅するト短調交響曲の有名なフレーズが、カデンツァでなぜか禍々しい姿で再現されるのには圧倒されました。
続く第2楽章アンダンテの霧の中に映える湖のような情景的な美しさはアシュケナージの独壇場と言って良いでしょう。どこを聴いてもモーツァルトの音楽しかなく、足さず引かず、ありのままの素材の美しさをピアニストは示して見せます。
そしてフィナーレは快速テンポで弾むようなリズムを刻み、聴いていてとても心地よい。最後のキメも見事です。
第22番K.482は、なぜかわが国では知名度の薄い曲ですが、「プラハ」や「ジュピター」といった交響曲の傑作を想起させる重心の低いオーケストラと、格段に派手でスケールが大きいピアノががっぷり四つにせめぎ合い、圧倒的な感銘を残します。もう少し人気があってもよさそうなものですが…。
こういう曲に対してアシュケナージは変に小ぢんまりしたりせず、いつもの彼とは思えない堂々とした演奏を聴かせます。第1楽章なんて、最初はバレンボイム?と思ったほどです。
しかし、この演奏の最大の白眉は第3楽章ロンドです。
まるで第27番K.595を想起させるような冒頭部。しかし、スコアを見ると、この2曲は全然違います。22番は左手の動きが多いですが、意外や意外、27番の左手の動きは簡素です。言うまでもなく、第27番のこの部分は天才自身の歌曲「春への憧れ」に転用されていますが、27番と「春への憧れ」の作曲年は1791年。22番は1785年。おそらく22番と転用の関係はないでしょう。
ただ、モーツァルトあるあるですが、彼の運命的な旋律のいくつかは、姿かたちを変えていろいろな作品に出てきます。有名なのはジュピター交響曲の旋律で、交響曲第33番やヴァイオリン・ソナタK.482に現れることで有名です。他に「プラハ」交響曲の第1楽章に歌劇「魔笛」序曲の旋律が現れるのは皆様もご存知のことでしょう。このように枚挙にいとまがありません。
話を元に戻して、「22番」と「27番」の第3楽章は調こそ違いますが、同じフラット調のロンド形式で8分の6拍子。これを意識したかしなかったか分かりませんが、アシュケナージは後述する「27番第3楽章」と同じ調子で演奏しています。内田光子とかブレンデルでは気付かなかったのですが、アシュケナージではハッキリ似て聴こえます。これは目から鱗でした。
しかし、この曲の本当の素晴らしさを知るには、第3楽章の中間部を待たなければなりません。それまでの快活な雰囲気から一変、4分の3拍子、アンダンティーノ・カンタービレでは、まるで彼の「フィガロ」や「コジ」を想起させるようなロマンティックな音楽が現れます。モーツァルトの協奏曲の終楽章ではかなり異例な音楽の挿入と言って良いでしょう。
アシュケナージとフィルハーモニア管弦楽団は見事なチームワークで、この音楽の魅力を引き出すことに成功しました。
「23番」は、中学生の時に何度聴いたか分かりませんね。その後、グルダとアーノンクールとかホロヴィッツとジュリーニとか聴きましたけど、やっぱり最後にはこのCDに戻ってきてしまう。
まず気に入ったのは第1楽章の入りです。オーケストラの入り方もピアノの入り方もふわっとやさしい。こんな普通のことなのに、大家の中にはこの部分をガシャガシャと乱暴に弾く例もあり、がっかりしてしまいます。
第2楽章はロマンティックのきわみです。オーケストラと一体となり、アシュケナージの玲瓏な音色の美しさが最大限に発揮された名演と言って良いでしょう。
第3楽章も焦らず力まず。昔の音楽評論家・小石忠男先生の言葉を借りれば、まさに円満妥当な解釈と言えるでしょう。至極当たり前のような演奏でありながら、巨匠的な気負いから最も遠い純粋なモーツァルトが楽しめます。