オットー・クレンペラー&ウィーン・フィル/1968年ウィーン芸術週間ライヴ(2)

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クレンペラー&ウィーン・フィル~1968年ウィーン芸術週間ライヴ(8CD)

Disc 04
⑧ ブルックナー:交響曲 第5番 変ロ長調

Disc 05
⑨ マーラー:交響曲 第9番 ニ長調(第1-3楽章)

Disc 06
⑨ マーラー:交響曲第9番 ニ長調(第4楽章)
⑩ J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲 第1 番 ヘ長調BWV.1046

Disc 07
⑪ R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」Op.20
⑫ ワーグナー:ジークフリート牧歌
⑬ ワーグナー:《トリスタンとイゾルデ》第1幕への前奏曲
⑭ ワーグナー:《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第1幕への前奏曲

Disc 08【ボーナスCD】
⑮ ブラームス:ドイツ・レクイエム

指揮:オットー・クレンペラー
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
合唱:ウィーン楽友協会合唱団⑮
ヴィルマ・リップ(ソプラノ)⑮ エバーハルト・ヴェヒター(バリトン)⑮
録音:1968年5月19日(①②⑩)、26日(③④⑥)、6月2日(⑦⑧)、9日(⑨)、16日(⑤⑪~⑭)
ウィーン楽友協会大ホールでのライヴ【ステレオ】
【ボーナスCD】1958年6月15日(⑮)同上ホールでのライヴ【モノラル】

 

ウィーン・フィルの特徴が活きた美しいブルックナー

今回も珠玉の名演奏を集めたクレンペラーのウィーン芸術週間ライブを紹介します。

まずはブルックナーの交響曲第5番。

正直、私はクレンペラーのブルックナーの熱心な聴き手ではありませんし、評論家の間でも巨匠のブルックナーに対する評価はあまり芳しいものとは言えません。

ただ、クレンペラーの生きていた時代は、ブルックナーの演奏アプローチがまだ確立しておらず、昨今では顧みられることのない改訂版も頻繁に使われていただけに、現代人の尺度でアレコレ批判するのは少々お門違いな気もします。

例えば、EMIからリリースされたフィルハーモニア管弦楽団との第4~9番の交響曲なんて、過去には「ウドの大木」と揶揄する評論家もいて妙な先入観を植え付けられましたが、定型的なブルックナーばかり聴かされる昨今においては、むしろ新鮮に聴こえるから不思議なものです。

このウィーン芸術週間での「第5」も、ところどころ違和感がありはするものの、ブルックナーの演奏伝統を受け継ぐウィーン・フィルの対応力で、魅力的な演奏に仕上がっています。

第1楽章の冒頭は、悠然とした歩みから巨大なコラールを経て第1主題に入るまでの展開が実にスマート。晩年のクレンペラー独特のもっさりした遅さはありません。続く第2主題は音質のせいもあってか、オーストリアの田園風景を感じさせる鄙びた感じが非常に魅惑的です。さらに第3主題は、弦も管も黄金期のウィーン・フィルハーモニーの素晴らしいサウンドに満ち溢れ、聞き手は幸福な気持ちに包まれます。

第1楽章第2主題

第2楽章アダージォは、第2主題登場以降の清澄な寂静感が印象的で、特にフルート奏者の卓越した演奏能力には深い感銘を受けました。対して荒々しい曲調の第3楽章は、ウィーン・フィルのサウンドが中和作用を生み出し、レントラーの雰囲気がより表立った仕上がりになっていて、鈍重なイメージは全く感じられません。

最後の第4楽章は、冒頭部がブルックナーというより戦前のバッハ演奏みたいに聴こえます。その後も当代随一の教会オルガニストであったブルックナーの面目躍如、壮大かつ緻密なフーガが書き込まれているだけに、バッハ・ベートーヴェンを得意にしたクレンペラーの腕の振るいどころ、と言ってよいでしょう。主題の複雑な辛みが整然と、スケール豊かに展開するのには圧倒されます。些細な音符のピックアップにも余念がない。

惜しむらくは、古い録音だけにコーダのすさまじい盛り上がりが若干うるさく聴こえることです。会場で生演奏を聴いた聴衆はきっと圧倒されたことではないでしょうか。

 

鄙びた音質が逆に怖かったヌオヴァ・エラのマーラー「第9」

続いては、マーラーの交響曲第9番です。

この演奏は、1988年にイタリアのヌオヴァ・エラというレーベルから発売され、大変話題になりました。まず、こういう録音が遺っていたのか!という驚きと、とてつもなく孤独で野趣に満ちた音の響きに少なからぬ衝撃を受けたものです。

しかし、今回ご紹介するボックスを聴いてみると、印象はかなり異なります。要するに、ヌオヴァ・エラ盤の音質が悪かっただけで、実際にムジークフェラインに鳴り響いた音楽は、もっと艶やかで、ぬくもりのあるものであったと思われます。

一方で、「録音の偶然」が起こした奇跡と言いますか、ヌオヴァ・エラ盤のあのゾッとするような寂しさもなかなかに捨て難く、中古ショップで見つけられたら、私はぜひ買いを推奨したいです。

 

ウィーン・フィルとのチャレンジであった「第9」

ただし今回は、ヌオヴァ・エラ盤ではなく、テスタメントボックスの方のマーラー「第9」を採り上げます。

クレンペラーは、マーラーの直弟子で、演奏解釈においては作曲者のお墨付きを得た人です。一時はバーンスタインやテンシュテットのような激情型マーラーが持て囃されていたので、クレンペラーのスタイルはあまり評価を得られなかった感もありますが、躁鬱的な色合いの濃い「第7交響曲」を驚くべきテンポで緻密に捌いて見せたり、「大地の歌」を孤高の境地のように表現したのを聴けば、さすが正統な解釈者だと思います。

この1968年の演奏においても、クレンペラーはいつものじっくりしたテンポを採り、各楽章の構造を明確化。それにより、複数の声部が有機的かつ緻密に絡むのも、透けるように分かります。第1楽章と第4楽章でマーラーの意図した「別れ」や「死」のテーマがより深く表現されたのは、この遅いテンポのおかげと言って良いでしょう。

それにしても、クレンペラーは各音の響きに細心の注意を払っており、オーケストラの音色を丁寧に作り上げています。特に木管楽器の旋律を際立たせる彼独特のバランス感覚は、他の指揮者を大きく凌駕する熟練のテクニックです。

第1楽章はウィーン・フィルの弦が実に美しい。オーボエの牧歌的な長閑さにもウットリします。しかし、それを遮るように鳴り響くトランペットの清澄でありながら悲痛な叫び、ティンパニの威圧的な打撃、再現部に現れる不気味な「鐘」の音によって、私たち聴き手は再び悲劇的な世界に引き摺り戻されるのです。

第1楽章の不気味な「鐘」の音

特に「鐘」。甲高いチューブラベル(NHKの「のど自慢」の鐘)から異様に低いお寺の鐘まで、指揮者によって様々な「鐘」が試みられますが、クレンペラー盤はその中間の音域、「教会の鐘」のような音を演出します。この楽章に込められた、葬礼のイメージを具現化した、と言ってよいでしょう。

それにしても、続くフルートソロがマーラーらしからぬ美しい旋律戦を描き出すのは何でしょう?第2楽章の冒頭も、どこかハイドン的な「軽さ」を感じさせ、違和感があります。実は、この頃のウィーン・フィルのメンバーの中にはマーラーに対する理解が乏しかったり、果ては拒否感を持つ団員もいたそうで、この時の彼らの演奏が、今日的なものとやや趣を異にするのは仕方がありません(数年後、バースタインの地道な努力によって、そうした空気は一変されます)。

とはいえ、上記の譜例の旋律を諧謔的に奏でるチェロが、ムジークフェラインの豊かなホールトーンの中に明滅するのはさすがに聴きごたえがあります。素朴なレントラーと野卑なワルツが相互に混沌を作り出した後、音楽は冗談のような単純さで消え入りますが、それにしてもウィーン・フィルの音色のなんと美しいこと!

晩年のクレンペラー

第3楽章はグッとテンポを抑え、細かなパッセージがモザイク状に絡まる複雑さを見事に交通整理しています。それにしても、下の旋律が提示されて以降のこの世ならぬ彼岸の美しさは何に譬えたら良いでしょう。第4楽章を予兆するような世界を展開した後、音楽は再び混沌の中に舞い戻ります。そして最後のアダージオへ…..。

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音楽は深刻ぶらず。ノイエザッハリヒカイトにも陥らず。夜闇の中を彷徨うような頼りない足取りで進みます。ひょっとしたらウィーン・フィルの奏者にもこの得体のしれない音楽を前にまだ迷いがあるのかな?と聴こえなくもないです。それでも巨人・クレンペラーは力業でオーケストラを引っ張ります。

第4楽章については、あえて言うなら他の演奏に比してやや聴き劣りがするかもしれません。しかし、この楽章最大の聴きどころは、むしろ有名な弦によるクライマックスのあと。ersterbend(死に絶えるように)と書き込まれた部分にあるのです。

グスタフ・マーラー

ウィーン・フィルの恐ろしく澄み切った弦セクションが演じるこの世ならぬ世界。沈黙する管・打楽器セクションにも存在感がある不思議な演奏です。私は最初聴いた時、震えるくらいゾッとしました。これは死の世界の音楽と言って良いのではないでしょうか。

この楽章には、マーラー自身の手による『亡き子をしのぶ歌』の第4曲、「太陽の輝くあの高みでの美しい日」の一部が引用されています。まさしくそのタイトルのように、そこに暗い「死」はなく、澄み切った青空のような景色が広がっていて、聴き手の心もまた浄化されながら、音楽は静かに消えゆくのです。本当に偉大で、マーラーへの愛に満ちた演奏です。

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