アニー・フィッシャー ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全集 2

20世紀でもトップクラスのベートーヴェン ソナタ全集

前章で取り上げた、ハンガリーの名ピアニスト、アニー・フィッシャー(1914年 – 1995年)については、生前、彼女が極度の録音嫌いであったがために、その全貌を知るにはディスクが少なすぎることを嘆きました。

特に、1950~1960年代にEMIと製作したレコードの出来栄えがあまりに素晴らしく、これがもし鮮明なデジタル・レコーディングであったら、彼女の評価はまた全然違ったものになっていたでしょうに、とても残念でなりません。

とネガティブなコメントを書いている矢先、この投稿のための資料集めの段階で、それが単に私の知識不足であったことが判明\(◎o◎)/!

Disc 01
● ピアノ・ソナタ第12番変イ長調 Op.26『葬送』
● ピアノ・ソナタ第6番ヘ長調 Op.10-2
● ピアノ・ソナタ第31番変イ長調 Op.110
● ピアノ・ソナタ第13番変ホ長調 Op.27-1

Disc 02
● ピアノ・ソナタ第8番ハ短調 Op.13『悲愴』
● ピアノ・ソナタ第3番ハ長調 Op.2-3
● ピアノ・ソナタ第1番ヘ短調 Op.2-1

Disc 03
● ピアノ・ソナタ第32番ハ短調 Op.111
● ピアノ・ソナタ第20番ト長調 Op.49-2
● ピアノ・ソナタ第7番ニ長調 Op.10-3
● ピアノ・ソナタ第10番ト長調 Op.14-2

Disc 04
● ピアノ・ソナタ第18番変ホ長調 Op.31-3
● ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調 Op.106『ハンマークラヴィーア』

Disc 05
● ピアノ・ソナタ第27番ホ短調 Op.90
● ピアノ・ソナタ第9番ホ長調 Op.14-1
● ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調 Op.27-2『月光』
● ピアノ・ソナタ第28番イ長調 Op.101

Disc 06
● ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 Op.57『熱情』
● ピアノ・ソナタ第17番ニ短調 Op.31-2『テンペスト』
● ピアノ・ソナタ第15番ニ長調 Op.28『田園』

Disc 07
● ピアノ・ソナタ第16番ト長調 Op.31-1
● ピアノ・ソナタ第30番ホ長調 Op.109
● ピアノ・ソナタ第2番イ長調 Op.2-2
● ピアノ・ソナタ第24番嬰ヘ長調 Op.78『テレーゼ』

Disc 08
● ピアノ・ソナタ第5番ハ短調 Op.10-1
● ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 Op.53『ワルトシュタイン』
● ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調 Op.7

Disc 09
● ピアノ・ソナタ第25番ト長調 Op.79『かっこう』
● ピアノ・ソナタ第19番ト短調 Op.49-1
● ピアノ・ソナタ第26番変ホ長調 Op.81a『告別』
● ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調 Op.22
● ピアノ・ソナタ第22番ヘ長調 Op.54

アニー・フィッシャー(ピアノ)

・1977-78年 ブダペスト、フンガロトン・スタジオ

 

この頃、近代演奏家にとって飯の種であるレコーディングというツールに背を向け、ひたすらコンサート・ピアニストとしての活動に重きを置いていたアニーも60歳を過ぎていました。

そんなアニーの前に、ぜひわが社でベートーヴェンのソナタ全集を弾いてほしいと懇願するプロデューサーが現れます。彼が所属していたレーベルは、ハンガリーの大手レコード会社、フンガロトンでした。

世界的にはマイナーな会社ながら、あの偉大なるバルトーク大全集を完成したレーベルです。

フンガロトンはハンガリー生まれの優秀な音楽家、それこそジョージ・セルとかゲオルク・ショルティのように国際的に羽ばたいた人ではなく、ヤーノシュ・フェレンチクやヤーノシュ・ローラのように、ハンガリー・ローカルでの活動に軸足を置き、バルトークやコダーイの民族愛溢れる演奏を展開した芸術家たちを抱える会社でした。

東欧の地味なレーベルであったとはいえ、プロデューサーの必死の懇願に、頑固なアニーも条件付きで折れます。

しかし、その条件がありえないくらい厳しいものでした。アニーが納得のいくまで好きなだけテイクを重ねられること、録音時間を望むまま確保できること、もし録音の出来が良くなければ発売は許可しない、云々。

メジャーレーベルのプロデューサーであれば、おそらく激怒していたことでしょう。これを受け入れ、果たしたフンガロトンには拍手を送りたいです。ひょっとしたら、国のバックアップがある東欧のレーベルだったからこそ実現できたのかもしれません。

何はともあれ、レコーディングが始まります。別の似たような話なら、「当初の懸念が杞憂であったように、録音はトントン拍子に進んだ」とかなるのでしょうが、このベートーヴェン・プロジェクトは想像以上に困難を窮めます。アニーの要求が想像以上にキツかったのです。

実は、レコーディングそのものは1年で一気に完了していました。ところが、彼女がここが気に入らない、あそこがダメだと執拗にテープにダメ出しし、弾き直して編集の繰り返し。納得いくまで発売は認めないので、市場に出るのは1年に1枚のペース。とうとう、1995年にアニーが亡くなるまで、全部が発売されなかった(許可されなかった)のです。

しかし、アニー没後の2002年、彼女の生前の許可がないものも含めて、フンガロトンは「全集」としてこの珠玉のソナタの発売に踏み切りました。許可うんぬんより、これを世に出さないことを「否」と考えたのでしょう。英断です。

演奏は実に素晴らしい。書店に行くと、名曲名盤何とかという書籍がたくさん並んでいますが、どうしてこの演奏が筆頭の一隅を占めないのか、不思議でなりません。録音も鮮明であり、ベーゼンドルファーの輝かしく優美な響きをとらえていて、EMIの時とは比べ物になりません。

まず8枚目の「ワルトシュタイン」から聴いてください。最初の左手と右手のたった1音の出のズレがこんなに深く滋味を以て聴こえる演奏はそうそうありません。例の3楽章の主題が出て来るところも、実に感動的に響きます。

4枚目の「ハンマークラヴィーア・ソナタ」はもっと素晴らしい。明晰でリズム感溢れる第1楽章、そしてそれ以上に超絶技巧のフーガを持つ第4楽章を難なく弾きこなし、ピアノ1台でまるで「第9交響曲」のような多彩な世界を表現します。この演奏はすごいです、絶対に聴いてみてください。

ベートーヴェンが晩年に到達した絶対孤高の境地、第32番に至っては彼女のベストフォームが示されています。第1主題に入るところのクレシェンドの盛り上げ方、そしてドイツ的なアクセントの強い下譜例のテーマの見事な弾きっぷり。

有名な3作品も良いですよ。「月光」「悲愴」「熱情」「テンペスト」、どれも老いなど感じさせないスピード感と音色の美しさ、そしてsfではギレリスやリヒテルに負けることのない力強い音を聴かせます。

他にもまだまだ書きたいことはあるのですが、まずはお聴きになられてください。著作権の問題で書けませんが、YouTubeに挙がっている音源もあります。しかし、この演奏の真価は圧縮音源ではなく、CDでこそ分かります。決して高い買い物にはならないはずです。

3件のコメント

  1. 有田

    はじめまして。
    戌年生まれ、アラ還の者です。クラシックとは中二のころからの付き合いで、長い時間が過ぎました。
    さて、クラシックをじっくり味わうことから永年遠ざかっておりましたが、ここ二、三年あらためて、クラシックの深い森に誘われました。音楽家が演奏する音とは何ぞや。などと訳の分からん領域に惹かれ、行き着いたのは楽譜でありました。ソナタアルバム上巻あたりでピアノは中退しましたけど。何故かベートーヴェンのピアノソナタ全曲を兎に角読んでみよう。それが昨年の課題でした。旋律線を追うのが精一杯ではありますが、初期のソナタは何とか内声の動きも少しは見えたかな言う感じです。一般的には円熟期の曲が人気ですが、ピアニストとして出発した楽聖の若いころのソナタに特に惹かれます。ラルゴ・エ・メストの深い味わいのある第七番。作品番号22のBドゥアのソナタなど隠れたる絶品です。
     御紹介くださったアニー・フィッシャーですが名前は存じてますが、演奏は聞いたことがありません。仰せのとおりこれはCDで聞きたいです。長々と書き込み大変失礼いたしました。

    返信
    • 音盤 太郎

      はじめまして。
      貴重なメッセージも交えて素晴らしい投稿を頂き、まことにありがとうございます。
      私もこれまでは『ながら聴き』ばかりで、クラシック音楽と真面目に向き合ってきませんでした。
      しかし、このブログを書くにあたり、真剣に楽譜を精読して聴くようになり、
      器楽曲や室内楽曲の面白さ、奥の深さに感じ入ることができるようになったと思います。

      そうした気持ちの変化で、アニー・フィッシャーの凄さに開眼したのかもしれません。
      ぜひ、有田様もクラシックの深い森に長居されてください(笑)。

      まことに拙稿ではありますが、今後もこのブログをご贔屓にして頂ければ幸いです。
      ミステイクやお気に障る表現があった場合は、いつでも厳しいご意見をお待ちしております。

      併せて『文豪と歩きますよ』サイトもご高覧頂ければ幸いです。http://tabi-booklike.com/ 

      返信
  2. 有田

    音盤太郎様。

    こんばんは。
    ご丁寧な返信をありがといございました。文豪と歩きますよ・・・にも立ち寄らせていただきました。司馬遼太郎記念館が紹介されてましたが、実は大阪市内に住んでおります。といっても記念館へ足を運んだことがなく、お恥ずかしい限りです。出身は東京杉並区ですが、大阪へ来て二十年が過ぎました。何故か居心地がよく居ついてしまいました。
    さて、器楽曲や室内楽の極意は、細かな音の動きをを掴むことでしょうか。すると、自然に楽譜へ向かいますね。アナリーゼという分野が最近幅広く語られるようになり、なんとなく嬉しいです。和歌山県立博物館で読響所蔵の楽譜が公開されているようなので、時間を見つけて行こうと思います。

    今宵は格別の寒さ。まさに寒中であります。どうぞ温かくしてお過ごしくださいませ。

    返信

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