カルロス・クライバー DG録音全集(5)

劇場指揮者 カルロス・クライバーの代表的名盤

Disc 08-10
・ワーグナー:楽劇『トリスタンとイゾルデ』全3幕
マーガレット・プライス(ソプラノ)
ルネ・コロ(テノール)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ブリギッテ・ファスベンダー(アルト)
クルト・モル (バス)

合唱:ライプツィヒ放送合唱団
管弦楽:シュターツカペレ・ドレスデン
指揮:カルロス・クライバー

録音:1980年8&10月、1981年2&4月、1982年2&4月 ドレスデン、ルカ教会

Disc 11-12
・ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』全3幕
ペーター・シュライアー(テノール)
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(ソプラノ)
エディト・マティス(ソプラノ)
テオ・アダム(バス)
ベルント・ヴァイクル(バリトン)
ジークフリート・フォーゲル(バス)
ゲルハルト・バウル(語り)

ライプツィヒ放送合唱団
シュターツカペレ・ドレスデン
カルロス・クライバー(指揮)
合唱:バイエルン国立歌劇場合唱団
管弦楽:バイエルン国立歌劇場管弦楽団
指揮:カルロス・クライバー

録音:1976年5月、1977年5、6月 ミュンヘン、ビュルガーブロイ=ケラー

 

意表を突いたスタティックなトリスタンの世界

カルロス・クライバーがデジタル録音黎明期に彼の最も得意とする「トリスタンとイゾルデ」を収録したのは、ひとつの事件でした。言うまでもなく、当時の音楽誌は絶賛の嵐。そして、それがたとえ4枚組で1万円を超える高額商品であっても、長い間、売れ行きは上々であったと記憶しています。

しかし、劇場での「燃えるクライバー」を知る一部のファンからすれば、何だかおとなしい、整然とした「トリスタン」には、失望にも似た感情が広がりました。特に、イゾルデを演じるマーガレット・プライスのリリックな歌唱には、ことさら大きな不満がぶつけられたような気がします。

それでは、劇場でのクライバーの「トリスタン」というのはそんなにすごいものだったのか?

答えはイエスです。後年、彼の実演を収めた非正規盤の数々がリリースされています(2019年12月現在、確認できるものは7種類)が、スタジオ録音と違い、ものすごいテンションで音楽が波打っています。

気になられる方は、ためしに1975年と1976年のステレオ録音盤をお聴きになってみてはいかがでしょうか。

クライバーは、実演ではほぼイゾルデ役にカタリーナ・リゲンツァという歌手を起用しています。彼女の声質・演技はいわゆるワーグナーにうってつけのもので、往年の名歌手、フラグスタートとかニルソンに比しても遜色ありません。彼女のイゾルデは、まさに理想と言って差し支えないでしょう。

それが、正規録音で起用したのは彼女と真逆のキャラクターのプライス。「椿姫」でのコトルバスもそうでしたが、クライバーは実演と録音であからさまに違うキャスティングをするので、聴く方は「エッ?」と戸惑ってしまいます。

とは言え、あえてプライスを採用したことで正規録音は唯一無二の価値を持ったのかもしれません。この演奏は、本当に静けさの世界、漆黒の夜の海の凪ぎが眼前に浮かぶような音響世界で、最後までひたすらに美しい。プライスの透き通るような若い娘らしい声が、ドレスデンの繊細なオーケストラの響きと完全に調和しており、例えば大団円の有名な「愛の死」を聴くだけでも、綺麗な純愛ドラマを見た後のような、清々しい感動に包まれます。

ちなみに、クライバーはバイエルン国立歌劇場を本拠地にし、ウィーン・フィルと積極的に録音活動を行ったイメージがありますが、一方で当時の社会主義圏、東ドイツのドレスデン国立歌劇場との仕事にも積極的でした。このオケはドイツの名門ながら、当時の政治状況から西側の指揮者には敬遠されていた経緯があり、その代表的事件が、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のレコーディング・ボイコットとして有名です。

今日でも最高の名盤の評価を受けているこの録音も、当初は指揮者にイギリスのジョン・バルビローリ(1899年 – 1970年)が予定されていました。ところが、1968年に「プラハの春」事件が起き、それに憤慨したチェコの名指揮者ラファエル・クーベリックが「東側諸国での演奏をしないでほしい」と世界中に触れ回ったため、バルビローリは録音を断ったそうです。で、代わりに名乗りを上げたのが、カラヤン。

帝王カラヤンがなぜこの録音を引き受けたのか。彼独自の節操のないビジネス感覚という誹謗もありますが、私はむしろこのオーケストラの風格に満ちた、堅牢なサウンドで自身の理想とするワーグナーを演奏できる千載一遇のチャンスをものにしただけだと思います。

クライバーもしかり。デビュー時の「魔弾の射手」、そしてこの「トリスタン」というように、ドイツ・オペラの王道と言える音楽、音楽史を変えた傑作、そしてフルトヴェングラーやベーム、父エーリッヒ・クライバーが自家薬籠中の物としていた作品に臨むにあたり、パートナーはドイツ帝国の香りを色濃く遺す東ドイツのカペレしか考えられなかったのでしょう。

そして、オーケストラはその期待にたがわぬ演奏をしています。第1幕ラスト、媚薬を飲んだ後の男女の煌めくような愛の高まりの表現力、第3幕の前奏曲の凄絶かつ繊細なサウンドの素晴らしさ。これらには何度聴いても感嘆の声をあげざるを得ません。

あと、コロのトリスタンも巷間の評価はあまり芳しくありませんが、私個人はその若々しい声のハリと歌の勢いに理想のトリスタン像を感じます。愛が燃え上がる二人はまだ若い青年と娘。プライスとともに、ワーグナー歌手はかくあるべきという呪縛から離れ、ストーリーに即した演技を全うしているのは素晴らしいと思います。

老臣クルヴェナルを演じるフィッシャー・ディースカウは、さすがにフルトヴェングラーとの世紀の名盤の時のような絶対的な存在感は薄れていますが、まるで歌舞伎のはまり役の名演技を見るかの如く、説得力のある歌唱で聴く者を圧倒します。

私は「トリスタンとイゾルデ」の最高の名盤はベーム盤だと思っていますが、壮年期に差し掛かるクライバーが従来の壁をぶち破る野心を持って臨んだこのディスクにも、最大限の賛辞を贈りたいです。

 

クライバーの衝撃的デビュー盤「魔弾の射手」

クライバーにとって「魔弾の射手」とはどういう位置づけだったのでしょうか?

前述の「トリスタン」や「椿姫」、「こうもり」はそれこそ何度も何度も上演され、録音もされていますが、「魔弾の射手」に至っては1967年と68年に集中的にシュトゥットガルト歌劇場で上演されて以来、全く舞台で採り上げられることはありませんでした。

ただし、序曲のみは1978年にシカゴ交響楽団と、1979年にウィーン・フィルハーモニーとの演奏会で採り上げており、何か彼の癇に障って関心を持たれなくなった、と言うことではないようです。

あくまで推測でしかありませんが、ここで紹介するドイツ・グラモフォン盤の演奏ですべてをやり尽くしたので、打ち止めにしたのか。あるいは、父親の遺した「魔弾の射手」には及ばないと自分で思い込み、封印したのか。あまり指摘される方がいらっしゃらないのですが、カルロス・クライバーのミステリーの一つだと思っています。

何はともあれ、このディスクは天下のドイツ・グラモフォンが満を持して評判のサラブレッド、カルロス・クライバーを世に送り出した記念碑的ディスクであり、今日でも「魔弾の射手」の筆頭的名盤に挙げられる出色の出来栄えです。

序曲からカペレの豊かな低弦が轟音のように鳴り響き、引き続き有名な主題をペーター・ダムを筆頭とする素晴らしいホルン群が風格豊かに奏でます。素晴らしいのは、その直後の暗転を示すティンパニ。カペレのティンパニの響きは本当に柔らかく豊かで、パンパンしない、深く芳醇なもの。名手ペーター・ゾンダーマンだと思うのですが、本当に印象的です。

第1幕が始まると、その躍動するような音楽がますます生命力を帯びてきて、他のどの指揮者とも違う世界を描きます。例えば、ドイツ風の権化、巨匠風なフルトヴェングラーやヨッフムのディスクよりも推進力が凄まじく、リズムも弾むよう。

一種独特の音楽を構成するクライバーの指揮マジックですが、実はその秘密を知るための手掛かりが存在します。

1970年にシュトゥットガルト放送局が製作したテレビ番組を発掘したもの。当時40歳のクライバーが、オーケストラに対してかなり厳しい要求をしつつ、徐々に素晴らしい音楽を創り上げていく様子が収められています。

ここでの見ものは「魔弾の射手」序曲のリハーサル風景。「天空が闇夜に変わり、嵐が来て、大地は炎を吹き上げる」とか、「幽霊の存在を信じますか?」とか、クライバーの指摘は示唆に満ちていて、すこぶるユニーク。団員の気分の乗せ方がすごく巧い。ただし、自分の意図が伝わらないと、何度でも何度でも執拗に吹かせて締め上げていきますから、団員は全く気が抜けなかったことでしょう。

カペレでも当然そういうやり方を徹底したはずですから、このような名盤が生まれたのだと思います。しかもそれがオーケストラだけではなく、異常なテンションの合唱にも浸透しており、有名な「狩人の合唱」など壮烈な迫力です。

歌手陣も豪華。ペーター・シュライアーとグンドゥラ・ヤノヴィッツのカップルは、澄み切った声での歌唱の見事さだけでなく、内面まで掘り下げた性格描写も素晴らしく、文句のつけようがありません。

なお、このディスクにはセリフも全て収められており、往年の旧東ドイツのオペラの名盤を彷彿とさせるつくりになっています。ぜひ、多くの方に聴いて頂きたいと思います。

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