ファン投票が割れる20世紀の名テノール
オペラの花形と言えば、テノール。
その役どころは?と言いますと、悲劇の英雄や金持ちのご令息、色男や初心な青年など、まあ実際の舞台や映像で接したら一目瞭然なのですが、かっこよい役柄ばかりです。ところが、ちょっと前までそうしたお役目を大柄のルチアーノ・パヴァロッティなどが務めることがあり、一般の非クラシック・ファンからは面白おかしく揶揄されたりもしました(ただ、パヴァロッティの声と演技は圧倒的で、本当にオテロやマントヴァ公爵に見えたものです)。
対して昨今では、びっくりするほどのイケメン・テノールが、技術の粋を尽くした舞台装置と演出、映像のクオリティにより、ハリウッド作品のように見栄えするオペラ映像を多数制作しており、たった20年ほどで随分変わったなあ、と思わせます。
しかし、そうした最近の花形テノールたちと、20世紀のテノール界のスターたちの「歌」を対比した場合、根本的なところでまったく異質なものを感じるのは私だけでしょうか?
別に今の若い歌手たちを貶す意味ではありません。技術的な正確さや演技の洗練度は、むしろ現代の方が上です。
そういうことではなく、昔の歌手には「聴けば誰だか分かる声」、そして型にハマらない(時には作曲者や指揮者の意図を無視し、お客さんが喜ぶかどうかを重視する)独特な歌い方がありました(現代にもそういう歌い方ができる歌手はいるかもしれませんが、おそらく時代が許さないと思います)。
古くは、マリオ・デル・モナコ(1915 – 1982年)なんかがそうですね。録音が残っていますが、あの強靭な声は誰も真似ができないでしょう。まさに「黄金のトランペット」という比喩そのままです。
そして誰からも愛されたのがルチアーノ・パヴァロッティ(1935 – 2007年)。彼が歌う「誰も寝てはならぬ」とか「オー・ソレ・ミオ」は、素直に聴き手を感動させる「音楽の力」に満ちています。
そういえば、晩年のパヴァロッティとコンビを組み、「三大テノール」として一世を風靡したプラシド・ドミンゴとホセ・カレーラスの声もまた、非常に特徴的で熱狂的なファンを獲得するに足る素晴らしいものでした。
他にも、イタリアオペラの歌手だけで、エンリコ・カルーソー、フランコ・コレッリ、ベニャミーノ・ジーリ、フェルッチョ・タリアヴィーニ、ジュゼッペ・ディ・ステファーノ、ジャンニ・ライモンディなど、綺羅星の如くスターがいて、書いていけばキリがありません。そして、その誰もが圧倒的な声と、ブラインドテストをしても分かる個性的な歌唱法を備えていたのです。
ちなみに私見ですが、3大テノールを除いて、そうしたオペラの黄金時代の空気を20世紀の終わりまで伝えていたのは、やはりアルフレード・クラウス(1927 – 1999年)であった、と思います。クラウスはまた、私が最も敬愛するテノール歌手でもあります。
テノール界の至宝 アルフレード・クラウス
アルフレード・クラウスは、生前、スペインの至宝と言われた20世紀の偉大なリリコ・テノールのひとりです。
リリコ・テノールとは、テノールの声質とそれにふさわしい役柄を段階的に分けた場合、ちょうど中間あたりにくる領域です。
①カウンター・テナー 宗教曲やバロックオペラに登場。日本では米良美一さんが有名。ああいう声です。
②レッジェーロ 軽めの声質を活かして技巧的な歌を歌う。ロッシーニのアルマヴィヴァ伯爵など。
③リリコ ロマンティックで悩み多き主人公を演じる。ボエームのロドルフォなど。
④リリコ・スピント ヴェリズモのような叙情的かつ激情的な役柄に多い。アイーダのラダメスなど。
⑤ドラマティコ 太く強靭な声を要する重量級のテナー。オテロやトゥーランドットのカラフなど。
このほか、番外的にワーグナーの楽劇で登場するヘルデンと言う声域もあります。しかし、④と⑤とヘルデンは歌手の喉に過剰な負担をかけるため、これらの声域の歌手の寿命は一般的に短くなると言われています。現に、デルモナコとディ・ステファーノあたりは短い期間に圧倒的な声を聴かせてそのままフェードアウトした感があります。
その点、生涯リリコの役柄に徹し、かつ厳格な摂生に取り組んだアルフレード・クラウスは晩年まで驚異的な美声を保ち続けました。
思い出話をすると、80年代後半に東京(五反田ゆうポート)で彼のリサイタルがあったのですが、それはそれは素晴らしいもので、御年60とは思えないほどの美声、サビの部分でもハリのある高音を轟かせ、かつその貴族的な凛とした佇まいには心の底から痺れました。私だけでなく、周りのお客さんも全曲ブラボーの嵐でしたね。
中でも十八番のヴェルディ 「リゴレット」~「風の中の羽根のように」のラスト、“E E di pensier.”の伸ばしはお約束と言える歌い方で、こういうところ、まさに20世紀半ばの歌手全盛時代を生き抜いたスターだなあ、と感心したものです。
あと、クラウスは何と69歳の1996年にも来日を果たしています。ただし、これが最後の日本公演となりました。パヴァロッティの最後の日本公演は、感動的ながら全盛期を知る者からすれば少々、痛々しさも伴っていたのですが、クラウスにはそういう翳りは全くなく、声は往年のまま、しかも歌唱力は円熟味を増して、まさに夢のような時間を満喫させてくれました。
なお、この時のリサイタルは、映像商品として販売されているので、当時の素晴らしい公演を鮮明な画質と音質で楽しむことができます。
『アルフレード・クラウス リサイタル』
A.スカルラッティ:恋をしたい人は
グルック:ああ私のやさしい熱情が
マスネ:エレジー,青い目を開けて
ルイス・デ・ルナ:鉱山の奥で
オブラドルス:いちばん細くて綺麗な髪で,クーロ・ドゥルセの歌
ソロサーバル:「港の酒場女」-そんなことはあり得ない
マスネ:「ウエルテル」-なぜ我を目覚めさせるのか、春風よ
ドニゼッティ:「ルチア」-第1幕の二重唱
チレーア:「アルルの女」-フェデリーコの嘆き
セラーノ:「だて男連盟」-君が好きだ、小麦色の娘さん
テノール;アルフレード・クラウス
ソプラノ:菅英三子(S)
ピアノ;エデルミロ・アルナルテス
チェロ:アシエル・ポロ
1996年6月15日 東京オーチャードホール
この時のコンサートは、ちょっと変則的な編成で行われました。ピアノ伴奏だけでなく、ソプラノとのデュエット、チェロによる伴奏も入ります。ですから、オーケストラ伴奏の時のような派手さはないですが、ミニコンサートならではの客席との一体感が生まれています。
さて、演奏の方はと言いますと、冒頭、スカルラッティとかグルックの古い時代の歌曲が取り上げられていますが、もうこれがクラウス・ワールド。バロックの歌唱法の考証や古楽的なアプローチなんてどこ吹く風と、いつもの伸びやかな美声で明朗に歌い上げており、こんなことができるのはまさにクラウスくらいだ!と感心したものです。
中盤になると、彼の得意とするリリコの名曲が目白押し。マスネのウエルテル、チレーアのフェデリーコの嘆き。若々しく気品のある独特の声。いつものクラウスの「歌」がそこにはあり、このカッコ良さにはやられますね…。とにかく声の伸びが凄く、ヨレずにピーンと発声できる肺活量には圧倒されます。
あと、この公演では、菅英三子さんとのデュエットも入っています。ドニゼッティの「ルチア」から第1幕の二重唱。こういうのをまさに贅沢な時間と言うのでしょうか、二人とも役柄に入りきっていて、まさに絶唱。いいですね~。
リサイタルの締めは、セラーノの「だて男連盟」から「君が好きだ、小麦色の娘さん」という曲。「女心の歌」と並んで、クラウスのリサイタルではおなじみの曲です。プラシド・ドミンゴあたりも得意としてよく歌うので、スペインでは愛されている作品なのでしょう。
歌詞は恋愛体質の男伊達の恋の囁き。こういう若々しい曲を堂に入って歌えるクラウスは本当にすごい。ノリに乗ったチェロの伴奏に合わせて、クラウスはダンディな男のカッコよさを振り撒きます。そして、満面の優しい笑顔でこのお茶目な曲を歌い切り、日本の音楽ファンに別れを告げました。
映像を見終わって、彼に捧げる言葉はもうこれしかありません、「ありがとう、クラウス!」
この章の最後に、私は本当にアルフレード・クラウスのことが好きなので、彼が遺した数多の名盤の中からおすすめのディスクを何点か、皆様にご紹介したいと思います。
20世紀最大のプリマドンナ、マリア・カラスとの世紀の共演。クライバー盤と対極的に、ヨーロッパの劇場の猥雑な空気を感じさせる録音です。いつもに増して個性的でオーラが半端ないカラスの絶唱ですが、それに一歩も引けを取らない、気品あふれるアルフレートを演じる若きクラウスの美声にうっとりします。
クラウスは、イタリア・オペラだけではなく、モーツァルトのオペラでも精力的に役をこなしました。中でも当たり役は、「コジ」のフェランドでしょう。まだ35歳で声は絶頂期。ベームの立派なアンサンブルに溶け込み、すばらしいフェランドを聴かせてくれます。リリコ・レッジェーロの独壇場といえる歌唱をお楽しみください。
クラウスの十八番と言えば、「女心の歌」や「春風よ、なぜ私を目覚ますのか」とか多数ありますが、ドニゼッティの傑作、「連隊の娘」のトニオのアリア「友よ今日は楽しい日 Amici miei, che allergro giorno!」のカッコよさに勝るものはありません。私はかつて、ウィーン国立歌劇場のガラ・コンサートでレヴァインの指揮で彼がこの曲を歌うのを聴いたことがありますが、それはそれはサマになっていて、ハイCを連発する強靭な彼の声に魅了されっぱなしでした。この全曲盤でもクラウスの美声は圧倒的で、しかもドニゼッティの美しい音楽の洪水に浸れる意味でも、お薦めの一枚です。
最後に、クラウスならやはりリサイタルを聴いてほしい、と言うことから選んだ映像です。1995年と晩年のリサイタルですが、彼の場合はこの時期に一つの絶頂がありますから、技術的な不安は全くありません。それどころか、オーケストラをバックに大見得を切るように十八番の名曲を歌い切り、心の底から感動させてくれます。何度も再生ボタンを押すこと必至です。
最近、ファン・ディエゴ・フローレスというリリコ・テノール歌手が活躍しており、クラウスの後継とも言われていますが、確かに大歌手を彷彿とさせる歌いっぷりです。しかし、クラウスの自然な大見得より若干、ショーマンシップに傾斜する部分も強く、やはりクラウスは絶対無二の名歌手であったことをかえって実感します。むしろフローレスは、まだまだ秘められた可能性を磨いて、これまで誰も踏み込めなかった世界で一時代を築いてほしいと期待しています。