21世紀のブラームス演奏のスタンダード
まだまだ若いと思っていた指揮者、マリス・ヤンソンスも、この記事を書いている2018年には75歳を迎えました。75歳と言えば、フルトヴェングラーやバーンスタインの享年をとうに超えていますし、カラヤンに置き換えれば、ザビーネ・マイヤー事件に頭を抱えていた頃の年齢にあたります。
ニューイヤー・コンサートでの若々しい姿を見ていると俄かに信じがたいですが、ヤンソンスもいよいよ大家の域に達したということです。
年齢だけではありません。ヤンソンスはまるでドイツのカペルマイスターの如く、しっかり長い下積みを経て、その後は伸び悩む各地のオーケストラの育成に力を注ぎ、還暦を迎えてようやく世界のトップオーケストラと共演し始めた、いわゆる叩き上げの指揮者と言えますから、その実力もまた大家と呼ぶにふさわしいものです。
余談ですが、私が初めてヤンソンスのことを知ったのは80年代後半あたり。彼はまだ新進気鋭の若武者と言う感じで、イギリスのシャンドス・レーベルから、チャイコフスキーの交響曲をリリースしていました。それがちょくちょくレコード芸術の月評欄で高評価を得るようになり、私も関心を寄せるようになったのです。中でも驚嘆したのは、チャイコフスキーの交響曲の中では極めてマイナーな扱いを受けている「マンフレッド交響曲」の演奏。ヤンソンスは当時、まだそれほど有名ではなかった手兵、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団を相手にみずみずしいサウンドを引き出し、ストレートな勢いで劇的に、しかし細部は緻密に楽器のバランスをコントロールし、この曲の模範的な解釈を確立しました。こういうのを聴くと、何でこんなにすごい指揮者がマイナー・レーベルに埋もれているんだろう?と当時は不思議に思ったものです。
とは言え、カラヤン没後のベルリン・フィルの後任人事(1990年。結果はアバド)で、アバドやマゼール、クライバーに混じって、ヤンソンスの名前が候補に挙がっていたのには、私もさすがにびっくりしました。しかし、一流の奏者たちはちゃんと彼の才能を見抜いていた、ということです。ちなみにこの時、もうひとり意外な若い指揮者の名前が候補に挙がっています。その人物こそ、この次の選挙でシェフの座を射止めるサイモン・ラトルでした。ベルリン・フィルの慧眼、おそるべし!
さて、ベルリン・フィルのポストは得られませんでしたが、21世紀に入り、ヤンソンスはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団とバイエルン放送交響楽団と言う二つのトップ・オーケストラのシェフの座を射止めます。
ここからがヤンソンスの快進撃で、ベートーヴェン、ブラームス、ショスタコーヴィチの交響曲全集を完成させるなど精力的なレコーディング活動を行い、またその緻密で繊細な仕上がりは多くの音楽ファンの支持を集めました。
イメージと違う繊細で色彩感に満ちたブラームス
ヤンソンスと言えば、過去にムラヴィンスキーの助手としてレニングラード・フィルの指揮者を務めていたり、体育会系の豪快な風貌をしていますから、パワフルで細かいことは気にしない雄大な音楽づくりをするように思われがちです。
しかし、実際にはイメージとは真逆で、驚くほど楽器のバランスに気を配り、繊細かつオーソドックスな解釈で勝負する指揮者と言えます。
このブラームスの交響曲全集(バイエルン放送交響楽団)も極めて自然体な演奏であり、各楽器は伸び伸びと色彩感豊かに音を出しています。20世紀のブラームスの理想的解釈とされた、フルトヴェングラーのあの全人類の苦悩を背負ったような劇的な趣の演奏とはまるで異なります。
第1交響曲の冒頭は、例えばカラヤンがわざと弦の出をずらし、ティンパニをフォーグラーに強打させて重戦車のように響かせていたやり方とは全く違い、流線形に音を走らせます。そして、哀感に満ちたオーボエのソロが音に微細な変化をつけ、とても美しい音色を聴かせてくれます。このオーボエ奏者は、2楽章でも尋常ではないくらい表情豊かに演奏していますから、相当の名手かもしれません。
感動的な4楽章も良いですね。有名なクララに献呈した「山の上高く」の旋律を吹くフルートの音の美しいこと。力まない部分と鋭く吹き込む部分を交差させながら吹いているのが分かります。このような響きは、カール・ベーム指揮ベルリン・フィルの往年の名盤以来、久しぶりに耳にしたような気がします。そして、コーダではティンパニの連打を際立たせながら、タメて堂々と終結するところが素晴らしい。
続く2番は、全集中の白眉です。バイエルン放送交響楽団の穏やかで光沢のある音色を最大限に堪能できる演奏と言って良いでしょう。例えば、2楽章でホルンが出て、次に木管に引き渡され、やがて弦が甘い旋律を歌い始める箇所の美しさ!あと、3楽章のオーボエがきっちり音価を取って吹いているのに、無機質にならず、何とも表情豊かに聴こえるところ!
指揮者がかなり細部まで目配りしているにもかかわらず、まるで奏者が演奏を心の底から楽しんでいるかのようです。こういう演奏は、個性豊かな20世紀の名盤とは一線を画しており、ゆくゆくは21世紀の模範になるのかもしれません。
あと、3番も4番も同じ印象です。もし、あなたが3番の3楽章にロマンティックな陶酔を感じようとしたり、4番の1楽章に煽情的なカタストロフィーを求めようとすると、肩透かしを食います。ここにあるのは、過度に文学的な劇的表現ではなく、純音楽的で自然体のブラームス。オーケストラの芳醇なサウンドから見えてくるスコアの様々な仕掛けを愉しむことが、最良の聴き方と言えるでしょう。
最後にもう一言。あなたがもしSACDの再生装置をお持ちで、この全集をバラで揃えることができるのなら、2番と3番はぜひSACDでお聴きになられてください。広大なレンジの音響空間に放射するように拡がる豊かな響きを、まさに全身で感じることができるからです。