ジュリアード弦楽四重奏団のベートーヴェン

いま改めて聴くべきジュリアードの人間味

吉田秀和(1913年 – 2012年)さんという高名な音楽評論家がいました。

わが国ではかつて、宇野功芳さん(1930年 – 2016年)や黒田恭一さん(1938年 – 2009年)といった数多くの名物批評家が筆を揮っていましたが、吉田翁は別格中の別格。クラシック・レコードの専門誌「レコード芸術」のトップに長期連載を持ち、NHK-FMでは「名曲のたのしみ」という番組のDJを何と40年にわたっておひとりで担当していました。

また、中高年のクラシックファンなら、入門書として吉田氏の著作である「LP300選」、「世界の指揮者」、「世界のピアニスト」は必携だったと思います。私もボロボロになったこれらの本を今でも大切に持っています。

それだけ、クラシックの「演奏」ではなく「評論」の部分で吉田秀和さんは大きな影響力を持ち、またひとつの文芸ジャンルとして確立させた大功労者であったと思います。

そんな人物だけに、彼から嫌われた演奏家はおしまいだったのではないかと懸念してしまいますが、例えば好みの激しい宇野さんとは違い、わりとフラットに「良いと思った演奏」は褒め、「これはいけないと思った演奏」はお気に入りのアーティストであってもバッサリと切り捨てるのが常でした。上記「世界の指揮者」でも、いつもはよく褒めるカール・ベームのことをひどく貶しています(人間性にまで言及しているほどです)し、逆にグールドの例に見られるように、世間が懐疑的であったり、まだ無名である若手の「光る演奏」に対しては、積極的な伝道者の立場であり続けました。

そんな吉田さんが徹底して褒めていたのが、本日ご紹介するジュリアード弦楽四重奏団です。とかく、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲が大好きな吉田さんが同曲群を採り上げるたびに、その参照レコードとして用いていたのがジュリアードの旧全集で、しょっちゅうスコアを転載しながら、「ここをこうやるジュリアードはすごい」と絶賛していました。

ただし、私がそういう文章を目にしたのが80年代の終わり頃で、すでにアルバン・ベルク四重奏団やタカーチ弦楽四重奏団、フィッツウイリアムス弦楽四重奏団といった猛者たちが「レコード芸術」を賑わせていたので、吉田氏の激賞がややピンとこなかったのは事実です。また、なぜか長きにわたって、ジュリアード弦楽四重奏団のリマスターCDそのものが、あまり田舎のレコード店で見かけることがなかったため、吉田さんの絶賛を確かめる術もなかったのです。

Beethoven :Complete string quartets/THE JUILLIARD STRING QUARTET
(画像をクリックすると、タワーレコードオンラインへ移動します)

たしかに、タワーレコードさんのサイトなどでジュリアード弦楽四重奏団のベートーヴェン全集は何度かリマスターされてきたのは確認できますが、ジャケットの地味さや音質改善がいまいちだったため、あまり評判になった記憶はありません。

それが2020年になって、とうとうジュリアード弦楽四重奏団によるベートーヴェンの全集が素晴らしいリマスターで再発売されることとなり、吉田さんのかつての驚きをファンが分かち合える時がやって来たのです。

順序が逆になりましたが、ここでジュリアード弦楽四重奏団とはどういう団体なのか。改めて説明しておきたいと思います。

この室内楽団は、作曲家として有名なウィリアム・シューマン(1910年 – 1992年。当時のジュリアード音楽院の学長)の提唱により、1946年、結成されました。初期メンバーはジュリアード音楽院の学生ではなく、教授たちでした。

第1ヴァイオリン 第2ヴァイオリン ヴィオラ チェロ
1946年 – ロバート・マン 1946年 – ロバート・コフ 1946年 – ラファエル・ヒリヤー 1946年 – アーサー・ウィノグラード
1997年 – ジョエル・スミルノフ 1958年 – イシドア・コーエン 1969年 – サミュエル・ローズ 1955年 – クラウス・アダム
2009年 – ニコラス・イーネット 1966年 – アール・カーリス 2013年 – ロジャー・タッピング 1974年 – ジョエル・クロスニック
2011年 – ジョセフ・リン 1986年 – ジョエル・スミルノフ 2016年 – アストリッド・シュウィーン
2018年 – アレタ・ズラ 1997年 – ロナルド・コープス

特に1960年代のマン、コーエン、ヒリヤー、アダム時代の鉄壁のアンサンブル、超絶技巧ぶりは伝説となり、それまでノイエ・ザッハリヒカイトの代表格であったブタペスト四重奏団を主役の座から引き摺り下ろしたほどです。また、バリリ四重奏団やウィーン・コンツェルトハウス四重奏団のような牧歌的でのどかな室内楽団たちがもはや存在意義を失うほど、彼らの登場は楽壇に衝撃を与えたのでした。

彼らはシェーンベルクやバルトーク、カーターなど、それまでの弦楽四重奏団が技術的困難を理由に敬遠していた曲を積極的に取り上げ、やすやすと弾きこなしていきます。また、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの演奏において従来行われていたロマンティックな解釈を排し、構造的な革新性を明らかにするようなメカニックな演奏を披露し、聴衆を圧倒します。

例えば、モーツァルトの弦楽四重奏曲第19番「不協和音」ハ長調K 465のフィナーレ。この聴き古された名曲にはウィーン・コンツェルトハウス四重奏団による優美な演奏がありますが、速いテンポ、きびきびしたフレージングと言い、新しい時代のカルテットの登場をまざまざと感じさせます。

とは言え、今日改めてこのジュリアードの演奏を聴いてみると、巧いのは確かなのですが、当時言われていたような「冷たさ」を感じるところは少なく、むしろ情感豊かな演奏に聴こえないこともない。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第11番ヘ短調 Op.95『セリオーソ』がその一つの例です。第1楽章は、びっくりするほどテンションの高い演奏に仕上がっていて、特にコーダの盛り上がりはPOP調と言っても良いくらい。あと録音のバランスもあるのでしょうが、4つの楽器が対等に張り合っているのが手に取るように分かる演奏になっています。

第14番嬰ハ短調も、冒頭の孤高の音楽をしみじみと歌い上げるところが意外。何より中低域を支えるヴィオラとチェロが非常に良い仕事をしていますね。あと、たった11小節しかない第3楽章で流麗に旋律を弾きこなすマンのテクニックの凄いこと!

第16番は、初めて聴いた人はウィーンの楽団の演奏と錯覚するかもしれません。それくらい二つのヴァイオリンの音色が魅惑的で、全体的に暖かいサウンドになっています。

さて、この演奏で一番面白いのは曲後半からの構成力です。マーラーの「第3交響曲」と近似性を持つ神秘的なアダージォでは慎重に慎重にテンポが前進し、呼吸の深い音楽が作り上げられていく。そして謎めいた終楽章がそれまでの神聖さを打ち消すように悲愴さを訴えたかと思うと、またもや一転。今度は「冗談、冗談」とばかりに剽軽な顔をもたげだすのです。

そして上図の箇所で、束の間の悲愴感。いやはや、この曲の分裂気質的な感情の変転を見事なまでに表現しきっていますが、それを鋭角的に鳴らすのではなく、大きな起伏とともに、最後は豪快な楽聖の大笑いで締め括るような「人間的表情」を感じさせるところにジュリアード弦楽四重奏団の凄さを感じました。

全集をひととおり聴いてみて、本当によく考えられた、突き詰められた演奏だと感心しますが、それがメカニック至上主義ではなく、ロマン的な解釈とは対照的な表現で「人間・ベートーヴェンの素顔」を炙り出しているところに、むしろこの全集の価値があると言えます。ぜひ、ジュリアードの演奏という先入観を捨ててお聴きになってみてください。

 

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲全集(ジュリアード弦楽四重奏団)
Disc 01
ベートーヴェン:
弦楽四重奏曲第1番ヘ長調 Op.18-1(1968年5月14,15日)
弦楽四重奏曲第2番ト長調 Op.18-2(1969年1月8,9日)

Disc 02
弦楽四重奏曲第3番ニ長調 Op.18-3(1969年1月8,9日)
弦楽四重奏曲第4番ハ短調 Op.18-4(1968年5月16日)

Disc 03
弦楽四重奏曲第5番イ長調 Op.18-5(1968年5月22日)
弦楽四重奏曲第6番変ロ長調 Op.18-6(1968年5月23日)

Disc 04
弦楽四重奏曲第7番ヘ長調 Op.59-1『ラズモフスキー第1番』(1964年5月12,18,19日)

Disc 05
弦楽四重奏曲第8番ホ短調 Op.59-2『ラズモフスキー第2番』(1964年5月4,6日)
弦楽四重奏曲第9番ハ長調 Op.59-3『ラズモフスキー第3番』(1964年5月19,20日)

Disc 06
弦楽四重奏曲第10番変ホ長調 Op.74『ハープ』(1965年10月5,6日)
弦楽四重奏曲第11番ヘ短調 Op.95『セリオーソ』(1970年3月18,19日)

Disc 07
弦楽四重奏曲第12番変ホ長調 Op.127(1969年10月1-3日、11月10-12日)
弦楽四重奏曲第13番変ロ長調 Op.130(1970年2月25,26日、 5月6日)

Disc 08
大フーガ 変ロ長調 Op.133(1970年3月20日)
弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調 Op.131(1969年10月29-31日)

Disc 09
弦楽四重奏曲第15番イ短調 Op.132(1969年10月29-31日)
弦楽四重奏曲第16番ヘ長調 Op.135(1969年10月1-3日)

演奏:ジュリアード弦楽四重奏団
第1ヴァイオリン:ロバート・マン
第2ヴァイオリン:アール・カーリス(第1-6、11-16番、大フーガ)
イシドア・コーエン(第7-10番)
ヴィオラ:ラファエル・ヒリヤー(第1-10番)、サミュエル・ローズ(第11-16番、大フーガ)
チェロ:クラウス・アダム

録音:ニューヨーク、コロンビア30番街スタジオ

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