ドイツシャルプラッテンによる東独の素晴らしいレコードたち
大昔(1980-1990年代)の「レコード芸術」誌の広告欄は、ポリドール(グラモフォン、デッカ)、日本フォノグラム(フィリップス)、ソニークラシカル(CBS)、東芝(EMI)、ビクター(RCA、メロディア)、ワーナー(テルデック)、デンオンと、今では考えられないような豪華なレーベルがひしめいていましたが、そんな中にあって、地味ながら異彩を放つレーベルがありました。徳間ジャパンです。
このレーベルは言うまでもなく、日本を代表する出版社である「徳間書店」の音楽部門。現在は第一興商の傘下にあるものの、今でも「徳間」の看板を掲げるくらい、レコード会社としては一大ブランドだったことを記憶しています。
そんな同社は最盛期を迎えたバブル期前後、ドル箱であったアニメーション部門(スタジオジブリ作品)同様、クラシック部門にも大変な力を注いでいました。同社はドイツ民主共和国(東ドイツ)唯一のレコードレーベル、ドイツ・シャルプラッテン・ベルリン(エテルナ)と提携。まだヴェールに包まれていた東独の優れた演奏を次々にリリースし、我々日本のクラシックファンに、アーベントロート、コンヴィチュニー、スウィトナー、ケーゲル、ペーター・レーゼル、ズスケ弦楽四重奏団らによる素晴らしいレコードを届けてくれたものです(2021年現在はキングレコードが販売)。
私も学生だった当時、異彩を放つ徳間エテルナの広告には随分ワクワクしました。中でも目を惹いたのがバッハの宗教曲集の広告。合唱は、ドレスデン聖十字架教会合唱団やライプツィヒ聖トーマス教会合唱団と言った、大変物々しい名前の団体が担い、指揮者はヘルムート・コッホ、マルティン・フレーミヒのような、西側のメジャー・レーベルでは全く見ることがない名前が並んでいました。
当然、これら魅力あふれるCDは、喉から手が出るほど欲しかったものです。しかし、田舎で入手が難しく、かつCDも高嶺の花であった時代には、どうしても購入の決断がつきません。さらに、バッハを聴くならまずはリヒターやガーディナーのディスクの方が先だろう、という考えもあり、やがてこれらの音盤への興味はじわじわと薄れていきました。
それから数十年。
社会人になってお金に余裕もでき、バッハのみならず、ハインリヒ・シュッツやヘンデルなど様々なドイツの宗教曲に親しむ機会も増えた私は、急に昔憧れたエテルナのレコードのことを思い出しました。おもむろにネットを検索し、懐かしさいっぱいにようやく捜しあてたのが、今回紹介するBOXです。
Disc 01 – 02
ミサ曲ロ短調 BWV.232
マリア・シュターダー(ソプラノ)
ジークリンデ・ヴァーグナー(アルト)
エルンスト・ヘフリガー(テノール)
テオ・アダム(バス)
ドレスデン十字架合唱団
シュターツカペレ・ドレスデン
ルドルフ・マウエルスベルガー(指揮)
録音:1958年10月、11月 ドレスデン、ルカ教会
Disc 03 – 05
マタイ受難曲 BWV.244
ペーター・シュライヤー(テノール:福音史家)
テオ・アダム(バス:イエス)
ジークフリート・フォーゲル(バス:ペテロ)
アデーレ・シュトルテ(ソプラノ)
アンネリース・ブルマイスター(アルト)
ハンス・ヨハヒム・ロッチュ(テノール)
ギュンター・ライプ(バス)
ライプツィヒ聖トーマス教会合唱団
(合唱指揮:エルハルト・マウエルスベルガー)
ドレスデン聖十字架教会合唱団
(合唱指揮:ルドルフ・マウエルスベルガー)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
ルドルフ・マウエルスベルガー(指揮)
録音時期:1970年2月 ドレスデン、ルカ教会
Disc 06 – 07
カンタータ第4番『キリストは死の縄目につながれたり』 BWV.4
カンタータ第31番『天は笑い、地は歓呼す』 BWV.31
カンタータ第66番『喜べ、もろ人の心よ』 BWV.66
カンタータ第134番『おのがイエス生きたもうと知る心は』 BWV.134
ヘルガ・テルマー(ソプラノ)
ヘイディ・リース(アルト)
オルトルン・ヴェンケル(アルト)
エーベルハルト・ビュヒナー(テノール)
ペーター・シュライヤー(テノール)
ヘルマン・クリスティアン・ポルスター(バス)
ジークフリート・ローレンツ(バス)
ライプツィヒ聖トーマス教会合唱団
ライプツィヒ新バッハ・コレギウム・ムジクム
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
ハンス=ヨアヒム・ロッチュ(指揮)
録音時期:1976年
Disc 08 – 10
クリスマス・オラトリオ BWV.248
アグネス・ギーベル(ソプラノ)
マルガ・ヘフゲン(アルト)
ヨゼフ・トラクセル(テノール)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ライプツィヒ聖トーマス教会合唱団
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
クルト・トーマス(指揮)
録音時期:1958年12月 ライプツィヒ、聖トーマス教会
リヒターと対極 教会で鳴り響く「マタイ」
まずは1970年の「マタイ受難曲」。指揮はルドルフ・マウエルスベルガー。この人は弟のエルハルトとともに、ドレスデンとライプチヒでカントル(教会音楽家)としての生涯を過ごした人です。峻厳な求道者とは言え、演奏家として身を立てたカール・リヒターとはかなり違ったコースを歩んでいます。
ある意味、マウエルスベルガーが振る「マタイ」は商業録音とは言え、ドイツの教会で脈々と歌い継がれてきた宗教曲のありのままの姿を記録したものと言っても良いかもしれません。
例えばこの演奏に、リヒター盤の怒涛の悲劇のドラマを求めると物足りないでしょう。テクストを重視し(これは古楽スタイルの演奏家が目指す部分とは意味が異なります)、バッハの壮大な音楽自らに教会の精神を語らせようとします。ペテロの否認、ユダの裏切り、人民裁判の愚かさといったドラマに神経質に対応することはしないのです。
それより、このディスクを聴いてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の古風な、しかし雅なサウンドに心惹かれる方のほうが多いと思います。さらに音質の素晴らしさが圧倒的で、コーラスの美しい発声がはっきり聴こえます。歌手陣もシュライアー、アダム、フォーゲルと、時代を代表する名歌手たちが真摯に歌い上げていて、イエスの悲劇ではなく、純音楽的な教会音楽としての「マタイ」に我々は身を浸すことができるのです。
癒しの音楽のように鳴り響くドレスデンのロ短調ミサ
同じマウエスベルガーがドレスデン・シュターツカペレとともに収録した「ロ短調ミサ曲」も素晴らしいかぎり。1958年と録音がやや古いのが弱点ですが、それが些細なことと思われるくらい零れるような美しいサウンドが鳴り響きます。このフレッシュな美しさは古楽演奏と全く違う音色で、かといってゴージャスな現代楽器の響きを極めたカラヤンのものとも違います。
これはまさに、名門ドレスデン・シュターツカペレとドレスデン十字架合唱団、そしてドイツを代表する夢のような歌手陣らによる類まれなアンサンブルの結実と言って良いでしょう。
冒頭のキリエから、筆舌に尽くしがたい美しさ。深刻にならない着実なテンポ運び。Laudamus teでの独奏ヴァイオリン、続くDomine Deusでのフルートの巧さと極上の音色。少年合唱が目いっぱいエネルギーをぶつけるサンクトゥス。どこをとってもここまで全力投球のロ短調ミサの録音というのは、私は初めて聴きました。皆様にもぜひご一聴をお勧めします。
この他、名匠クルト・トーマスによる「クリスマス・オラトリオ」(かつて東芝から発売された、オールド・ファンにはたまらない名盤)もこのボックスで聴けます。ラミンやマウエスベルガーと同じく、過剰な演出なしに素晴らしいオーケストラと合唱を武器に、教会音楽のありのままの姿を聴かせるトーマスの真摯な指揮ぶりに感動します。受難曲のような重々しさがなく、喜びに満ちあふれた祝祭の音楽をぜひご堪能ください。