もっと聴かれるべき素晴らしい全集
ベルナルト・ハイティンクについては、2019年の大晦日にその引退を惜しむ記事をアップしました。
ところが、そのおよそ2年後の2021年10月21日、ハイティンクは92歳の生涯を閉じます。
高齢での引退だっただけに嫌な予感はしていましたが、アバド、マゼール、レヴァインと訃報が続き、マエストロ・ハイティンクまでもが鬼籍に入ってしまい、20世紀という一つの時代がとうとう終わったんだな…と寂しい気分になりました。
それでも、ハイティンクは膨大な録音を遺してくれたので、一つ一つ噛みしめるように聴いて、今後も在りし日の彼の素晴らしい事績を振り返っていきたいと思います。
ところで、皆さん。ハイティンクが振ったどの作曲家の演奏がお気に入りですか?
ベートーヴェン?ブラームス?ワーグナー?ブルックナー?マーラー?ショスタコーヴィチ?
私としては、どれも甲乙つけがたい名演奏と思います。
例えば、80年代に完成したベートーヴェン交響曲全集は、ハイティンクと彼の手兵・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の最良の仕事と言って良いでしょう。
フルトヴェングラーのようにドラマティックではないし、カラヤンのようにゴージャスでもない。アバド、ラトルみたいなピリオド・アプローチを採り入れた斬新な演奏とも違って、きわめて保守的で堅牢な演奏。でもそこが良い。
「英雄」なんてどっしりとして、音楽が滔々と流れ、本当に味わいのある音がする。こういうやり方だから、「第2」、「第4」、「第8」のような地味目な交響曲が、本当に生き生きとその魅力を発揮して聴こえるわけです。こういう音を引き出すハイティンクは凄いし、ヘボウも本当に良いオーケストラなんだな、と思います。
それから、このコンビが1960年~70年代というかなり早い時期に取り組んだマーラー全集もぜひお聴き頂きたい。
「え~」という声が聴こえてきそうですね。ただでさえ、複数の音楽評論家からイノセンスと謂れのない暴言を浴びせられていたこのコンビ。そんな彼らがよりにもよって、まだコンビを組み始めたばかりの頃に制作したマーラーです。
先入観から避けてしまう方は少ないと思います(私もそうでした)が、絶対にお聴きになることをお勧めします。
【ハイティンク&コンセルトヘボウ マーラー 交響曲全集】
Disc 01
● 交響曲第1番ニ長調『巨人』(録音:1962年9月)
Disc 02
● 交響曲第2番ハ短調『復活』(録音:1968年5月)
エリー・アメリング(ソプラノ)、アーフェ・ヘイニス(アルト)
合唱:オランダ放送合唱団
Disc 03 – Disc 04
1. 交響曲第3番ニ短調(録音:1966年5月)
2. 交響曲第4番ト長調(録音:1967年5月)
モーリン・フォレスター(アルト:1)
合唱:オランダ放送女声合唱団(1)、聖ウィリブロルド教会児童合唱団(1)
エリー・アメリング(ソプラノ:2)
Disc 05
● 交響曲第5番嬰ハ短調(録音:1970年12月)
Disc 06
● 交響曲第6番イ短調『悲劇的』(録音:1969年2月)
Disc 07
● 交響曲第7番ホ短調『夜の歌』(録音:1969年12月)
Disc 08
● 交響曲第8番変ホ長調『千人の交響曲』(録音:1971年9月)
イレアナ・コトルバス、ヘザー・ハーパー(ソプラノ)、ハンネッケ・ヴァン・ボルク(ソプラノ)
ビルギット・フィニレ、マリアンネ・ディーレマン(アルト)
ウィリアム・コックラン(テノール)、ヘルマン・プライ(バリトン)、ハンス・ゾーティン(バス)
合唱:オランダ放送合唱団、アムステルダム・トーンクンスト合唱団、アムステルダム音楽院合唱団
Disc 09
● 交響曲第9番ニ長調(録音:1969年6月)
Disc 10
● 大地の歌(録音:1975年9月)
ジャネット・ベイカー(メゾ・ソプラノ)、ジェイムズ・キング(テノール)
Disc 11
1. 嘆きの歌[1899年版](録音:1973年2月)
2. さすらう若者の歌(録音:1970年5月)
ヘザー・ハーパー(ソプラノ:1)、ノーマ・プロクター(アルト:1)
ヴェルナー・ホルヴェーク(テノール:1)、ヘルマン・プライ(バリトン:2)
合唱:オランダ放送合唱団(1)
Disc 12
1. 亡き子をしのぶ歌(録音:1970年5月)
2. 子供の不思議な角笛(録音:1976年4月)
ヘルマン・プライ(バリトン:1)、ジェシー・ノーマン(ソプラノ:2)
ジョン・シャーリー=カーク(バス:2)
【Blu-ray Audio】
上記の演奏全てに下記の演奏が加わります
交響曲第1番ニ長調『巨人』(録音:1972年5月)
管弦楽:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
指揮:ベルナルド・ハイティンク
録音会場:アムステルダム、コンセルトヘボウ
とにかく、サウンドが本当に素晴らしい。まさに、アムステルダム・コンセルトヘボウの音(近代化したロイヤル・コンセルトヘボウの音とは違います!?)。
例えばウィーン・フィルはピッチのせいか、たまに鋭角的な響きがしますし、ベルリン・フィルは重戦車のように低減が分厚い。またアメリカのオケは、ブラス・セクションが強めに感じます。
それに比べ、この頃のコンセルトヘボウの音は絹のように滑らかで、丸みのあるふくよかなサウンド。どこにも力みがなく、マーラーの音楽の牧歌的な味わいを心ゆくまで堪能できるのです。
パワフルで激情的な演奏が多い「巨人」も各楽器間のバランスが良く、このうえなく癒されます。「さすらう若者の歌」第2曲「朝の野を歩けば」をテーマとする第1楽章なんて、朝の爽やかな空気感が何とも心地よく伝わってきて素晴らしい!
そうかと思えば、「第2番・復活」や「第3番」のフィナーレは壮大な音楽が広がり、このオーケストラのパワフルな底力を思い知らされます。ただ一方で、うるさかったり力づくな感じが一切ないのもまた凄いと思います。
個人的に一番面白かったのが「第6番・悲劇的」。この曲はバーンスタインがウィーン・フィルを指揮した1988年の録音がもう本当に腰を抜かすほどすさまじいのですが、あれはひょっとしたらバーンスタインの音楽になっていると言っても良いかもしれません。
実は、ハイティンクによる演奏も、バーンスタインに負けないくらい激しいです。ただ、楽想をいかに面白く聴かせるかに指揮者が目を配っているため、バーンスタイン盤を聴いているときのような聴き疲れがありません。2楽章はともすると、個性の強い1楽章の後だけに、聴き手の興味を失いかねないのですが、諧謔的な進行の中に楽器がユニークな主張を魅せるさまをハイティンクが巧みに聴かせるため、愉しさに満ち溢れています。
そして運命の終楽章。ドロドロと暗くならず、明るく歯切れよくオーケストラが鳴り響くので、心地いい。以前、インタビューで文学的な(しかも、妻アルマとの確執を絡めた)マーラー演奏に嫌悪感を示していたハイティンクですが、そんな彼らしく、あくまで純音楽的にバランスを崩さないところはさすが。
次の「第7番」は何と言っても、あの奇妙なフィナーレを聴いてください。明晰でダイナミックなサウンドで突き進む爽快感がたまりません。それにしてもコンセルトヘボウ、上手いですね。
「千人の交響曲」は劇場で鍛えられたハイティンクの面目躍如。冒頭からオペラでも始まったのか、と思えるスケールで、歌手たちの名唱ぶりが際立ちます。合唱も良くコントロールされていますね。後半の壮絶な盛り上がりも感動的です。
「第9」がこれまたすごくいい。「第9」はこうあるべきという全てが表現し尽くされています。第1楽章の弦楽器が本当に絹の肌触りと表現されるのが理解できる美しさで、音楽はゆったりとゆったりと流れます。
ところが平穏を赦さないように上の第2主題やティンパニによる序奏の雷鳴が鳴り響き、緊張を与えます。そうした複雑な明暗の起伏が見事に描き分けられ、暗さや重さの鎧をまとった演奏、逆に綺麗なだけが取り柄の演奏とは一線を画していると言えるでしょう。それにしても、フルート奏者は巧いですね。
4楽章も素晴らしい演奏。冒頭は呆気にとられるほどの素っ気なさ。バーンスタインなんてあれはいったい何だったんだろうと思えるほどです(笑)。しかし、そこからが本当にすごくて、弦楽器中心にあまりに美しすぎる音楽を展開していくので、音楽にどんどん引き摺り込まれていきます。ヘボウにはオロフとクレバースという二人の凄腕のコンサート・マスターがいましたが、この弦楽器の見事さは圧巻というしかありません。
最後に「大地の歌」に触れておきましょうか。
この曲にはワルター、クレンペラー、バーンスタインの天下の名盤があるのですが、ハイティンク盤もそれに並べて良いのでは?と思います。オーケストラが絶美、まさに彼岸のこの世ならざる響きがします。そしてジャネット・ベイカーが絶唱と言って良いほど素晴らしく、「告別」なんて泣いてしまう人もいるんじゃないでしょうか。
Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz
und grünt aufs neu!
Allüberall und ewig Blauen licht die Fernen!
Ewig… ewig…
ベイカーが感情を抑えきれないような叫びを聴かせる一方、ハイティンクも大きな呼吸感のあるテンポ・ルバートをかけて聴かせます。先輩であるメンゲルベルクやベイヌムが作り上げてきたコンセルトヘボウのマーラーの音とはこういうものか、と唸ってしまいました。
ぜひ、この全集は聴いて頂きたいと思います。