フルトヴェングラー ザ・グレートEMIレコーディングス(3)

フルトヴェングラーの激情的なブラームス

(BOX全体の収録内容については こちら をクリック)

※以下、ボックス中 ブラームス 交響曲全集の部分のみ

Disc 10
・ブラームス:ハンガリー舞曲第1番ト短調
・ブラームス:ハンガリー舞曲第3番ヘ長調
・ブラームス:ハンガリー舞曲第10番ヘ長調
1949年4月、ウィーン、ムジークフェラインザール
・ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 op.56a
・ブラームス:交響曲第1番ハ短調 op.68
1952年1月、ウィーン、ムジークフェラインザール
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

Disc 11
・ブラームス:交響曲第2番ニ長調作品73
1952年5月、ミュンヘン、ドイツ博物館
・ブラームス:交響曲第3番ヘ長調作品90
1949年12月、ベルリン、ティタニア・パラスト
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

Disc 12
・ブラームス:交響曲第4番ホ短調作品98
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1948年10月、ベルリン、ゲマインデハウス
・ベートーヴェン:『コリオラン』序曲作品62
管弦楽:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1947年11月、ウィーン、ムジークフェラインザール
・ベートーヴェン:『レオノーレ』序曲第2番作品72a
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1954年4月、ベルリン高等音楽院

日本を代表する音楽評論家、吉田秀和さん(1913-2012)の指揮者に関する著述を集めたものに、「世界の指揮者」という本があります。元々は新潮文庫から出ていて、28人の往時の名指揮者たちについて論評してありましたが、2008年になって新潮版以後の著述を加えて再編集し、ちくま文庫から出ました。

その再編集した箇所にクラウディオ・アバドのブラームスについての稿があり、これはたしか1992年頃にレコード芸術誌の吉田氏の担当欄に掲載されたものだと記憶しています。

※アバドのブラームス交響曲全集に関する私の感想は下記をご参照ください。

アバド ベルリン・フィル ブラームス 交響曲全集 1

ここで吉田氏は、ブラームスの第4交響曲の第1楽章の冒頭の入りの箇所

h-g-e-a-fis-dis という進行の最初のhの長さをフルトヴェングラーがたっぷりとって、心の奥にしみじみ届くような印象をもたらす、アバドのやり方がこれに近くてびっくりした、という内容のことを書いておられます。

アバドの演奏については別稿で触れたので省略しますが、フルトヴェングラーのこの解釈については、「ため息」とも評され、彼の同曲演奏ではほぼ全てにおいて採用されています。ちなみに吉田氏の仰っているのは、戦時下という記述がありますので、1943年12月15日、フィルハーモニーにおける録音のことだと思いますが、このボックスに収められている1948年10月の録音の方がより長いアウフタクトになっています。

下が1948年の録音。

こちらが1943年の録音。

この第4番では、冒頭の箇所以外でもフルトヴェングラーはスコアに書かれた音価やテンポを無視し、ほとんど自己流の解釈で押し切っています。しかし、それがある種の説得力を持っているからすごいです。

例えば、同じ第1楽章のラスト。再現部からコーダに突入するあたりなど、加速が凄まじく、本来の半分くらいの音の長さでスパスパ進められていきます。カルロ・マリア・ジュリーニの演奏と比べると、同じ曲かと思ってしまいます。

でもよくよく考えてみると、冒頭は詠嘆の如きゆっくりした歩みですから、高々10分強の間で目まぐるしくテンポが流動していることになります。そこに違和感を感じさせないのは、中間部でアーティキュレーションをしっかりと掌握しているフルトヴェングラーの力量と言えるでしょう。

第4楽章もすごいです。第4変奏から第8変奏あたりまでが暗い情念の塊とドラマティックなのは想像がつくことですが、フルトヴェングラーはほんのわずかにテンポを動かすことでそうした効果を高めることに成功しています。また、有名なフルート・ソロからトロンボーンまでの受け渡しもさすがベルリン・フィルというサウンドで、美しいとか癒しというより、見てはいけない深淵の美しさみたいなものを映し出している。こうした箇所こそ唯一無二の素晴らしさです。

そもそもこの曲は、ブラームスが徹底して様々な様式を詰め込んだ理詰めの曲でもあります。東京大学の安冨歩教授は、フルトヴェングラーの「第4」は「システムに取り込まれた狂気」を表現している、と仰っていますが、論理の飛躍があるにせよ、一考の余地があります。戦中から1940年代後半にかけて、フルトヴェングラーが何故、ノイエザッハリヒカイトに反逆して激情型の演奏を行い続けたのか。そして、体力的な衰えがあったにせよ1950年代は何故、穏健な解釈へ転向していったのか?

これは面白いテーマではないか?と個人的には思います。

それでは第1交響曲はどうでしょうか?

第1交響曲は1952年1月27日の演奏。同曲には2月10日の手兵ベルリン・フィルハーモニーとの演奏もあり、どちらも甲乙つけがたい名盤ですが、剛毅な後者に対して、このウィーン・フィル盤はまことに優美でロマンティックな演奏と言えます。

※下はベルリン・フィル盤。平林直哉氏による見事な復刻です。

ウィーン・フィル盤を聴いてまず耳につくのは、当時の奏者たちの震えるくらいに見事な音色です。第1楽章序奏はオクターブ違いかと思えるほど弦がキラキラ美しく、様々なドラマを経た後のコーダはたっぷりしたテンポで天上の音楽を奏でます。

叙情的な第2楽章は名手たちの競演状態。ヴァイオリンの独奏者はボスコフスキーでしょうか?ピンと背筋が伸びたような折り目正しい弾きぶりながら、音色は甘美、かつよく歌います。

しかし、それ以上にびっくりしたのが第3楽章。聴き手には次の第4楽章への橋渡しのように思われかねない短い時間に、フルトヴェングラーは生命の躍動を吹き込みます。木管楽器の美しさをたっぷりと際立たせた後、テンポを急激に早め、トランペットが鳴り響くクライマックスに至ると、今度は印象的なピッツィカートによってテンポを急激に落とし、静かにまた第1主題に回帰していく。そして凄絶な第4楽章へ…。この辺りが単に感情の発露でなく、しっかり設計されたものであるから、感嘆してしまうのです。

第4楽章については何をいまさらという感じですが、休止の絶妙さが本当に素晴らしい。要所要所で歌われる第1主題がこれによって抜群の高揚効果を生み出すのです。最後のアルプスの動機も、まさに勝利の凱歌という感じで良いですね。

余談ですが、私は中学生の時にこの演奏を初めて聴き、いたく感動しました。その感動をきっかけにフルトヴェングラー信者になったと言っても過言ではありません。

しかも偶然ではありますが、同じ頃にNHK-FMの特番でフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルによる1945年の記録(ブラームス「第1交響曲」第4楽章のみ)が放送されるのを聴き、あまりの凄さにウィーン・フィル盤以上に打ちのめされてしまったことも信仰(笑)に拍車をかけました。1952年の2つは圧倒的名演ですが、それとは全く別次元の、まさにドイツの滅びの鐘のような音楽がそこにはありました。

コーダの荒れ狂うようなアッチェレランドをはじめ、全体的に何かに駆り立てられるような雰囲気を持っており、戦後の2つの「第1」とはどこか違います。ドイツにはもう破局的な結末が迫ってきており、彼自身もナチスから狙われ始めている。そんな中で響いたラストの凱歌は勝利の歌ではなく、もっと屈折したものに聴こえます。ぜひ、1952年の録音と比較して聴いて頂きたいと思います。

さて、余裕があれば「第2」と「第3」についてもゆっくり述べたいのですが、長くなりすぎるといけないのでここでは省略します。ぜひ、私の稚拙な感想にとらわれず、ご自身の耳でフルトヴェングラーの凄さを発見してみてください。もちろん音楽に身を委ねるだけでもじゅうぶん感動できますし、スコアを見ながら聴くとなれば、また別の感慨を受けることができます。本当に素晴らしいブラームスだと思います。

残念なことに、フルトヴェングラーはベートーヴェンのようにスタジオ・セッションでブラームスの交響曲全4曲を制作してくれることはありませんでした。録音嫌いの彼を満足させ得るレベルに世間の技術が達してから、残された時間があまりに短かったこともありますが、ただ仮にあったとしてベートーヴェンの時のような普遍的、穏健な佇まいであった場合、後世の人たちがそれを評価したかどうか。音が悪くとも、世の音楽ファンが夢中になったのは、ライブで激情的に燃え上がるフルトヴェングラーのブラームスではなかったか?ふとそんな考えが頭をよぎります。


 

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