ムラヴィンスキーのチャイコフスキー

鉄のカーテンの向こうから現れた精鋭たち

私が中学生のころまでは、まだソビエト社会主義共和国連邦という国がありました。
当時のソ連は言うなれば“恐怖の象徴”というイメージ。いつ攻めて来るかもわからない「敵国」であり、国際的事件の背景には常にソ連あり!という物言いすらされていました。
その一方で、この国家がどことなく醸し出していたミステリアスな雰囲気、かつ貧窮の中から放たれていた強烈な生命のオーラには、少なからぬ人が魅力を感じていたのは事実です。
特にスポーツや音楽の分野では、「鉄のカーテンの向こうから凄い奴が来る!」という触れ込みで、オリンピックや来日公演のたびにメディアで大騒ぎになったものです。
やや懐かしめの名前になりますが、セルゲイ・ブブカ、ライサ・スメタニナ、ナデジダ・オリザレンコ、イリーナ・ロドニナ、アレクサンダー・カレリン、男女バレーボールチーム等々、往年のソ連の五輪選手たちの雄姿は、ご年配の方であれば思い浮かべることができるかと思います。
そして音楽の分野では、ピアニストのリヒテル、ギレリス、アシュケナージ、ブーニン、ヴァイオリニストのコーガン、オイストラフ、チェリストのロストロポーヴィチというように、卓越したテクニックと情熱的な表現で聴かせる個性的なアーティストたちがその名を轟かせていました。
ただ、そのようなあまたのソ連の凄腕アーティストたちの中にあっても、エヴゲニー・ムラヴィンスキーとその手兵レニングラード・フィルハーモニー交響楽団だけは別格中の別格でした。

残念ながら私は実演を聴いていないのですが、その息詰まるような凄演の様子は、音楽評論家・宇野功芳氏の「名演奏のクラシック」などに詳しくまとめられています。

当時はよく冗談で、「レニングラード・フィルの奏者は、演奏でミスをやらかすとシベリア収容所送りになる」なんて言われていましたが、それが真実と思えるくらい、驚異的な正確さと尋常じゃない合奏能力を実現しており、これは当時の世界中の音楽ファンの度肝を抜きました。
彼らの来日公演を記録した非常に貴重な音源が発売されていますが、その中のショスタコーヴィチの「交響曲第5番」の第4楽章冒頭、ティンパニと金管の主題呈示の後、猛烈なアッチェレランドをかけて弦が刻むところなんて、ほかのどの演奏よりも凄まじいです。まさしく、当時最高レベルのオーケストラであったと断言できます。

そして、そんな彼らが一度だけ、西側のメジャーレーベルと組み、その圧倒的な演奏能力を世界に示したのが、ドイツ・グラモフォンからリリースされているチャイコフスキーの交響曲第4番、第5番、第6番「悲愴」の3枚組セットです。
かつては写真のようなデザインで、5番を2楽章ずつ分断される、という不便なつくりでしたが、新しいセットではゆったりと3枚組になっています。

 

 

 

 

 

BOX推薦のサイトですが、最高なのはグランドスラム盤

現在、最も入手しやすいのは、下のジャケットのOIBP盤です。

これは、オーケストラの楽器の配置感などを吟味してリマスタリングされたクオリティの高い製品ですが、それでも金管が張り出す感じで(これが従来ソ連の響きと持て囃されていた音なのですが)、弦は痩せぎすの印象を抜け出せません。
ところが、私が好きな音楽評論家、平林直哉さんが立ち上げた「グランドスラム」なるレーベルの同盤を耳にして、ほんとうにびっくりしたと言いますか、まさに驚天動地の思いがしました。

平林さんはレーベルの社員ではないので、当然マスターテープは持っていません。
ところが、さすが自称「盤鬼」のレコードコレクター。あちこちから未開封のLPやらオープンリールテープを蒐集し、入念緻密なマスタリングで新鮮な音の再現に成功しています。
「劣化したマスターテープよりも、未通針の状態の良いレコードの方が素晴らしく鳴るはずだ!」という平林氏の信念が、まさに執念となって結実したような完成度と言えましょう。
※ちなみに今回のチャイコフスキーは、グラモフォンの2トラック、38センチのオープンリール・テープを復刻したものです。
演奏の凄さをあげていけば、きりがありません。例えば、第4交響曲の冒頭、ホルンとファゴットによるファンファーレが何と有機的に立体的に響くことか。
3楽章のピチカートも弦をはじく音が生々しく、また会場の空気感のようなものがリアルに伝わってきます。
そして圧巻の終楽章は、ちゃかちゃか音割れするようなこともなく、弦のしなやかさが克明にとらえられています。

第5番と「悲愴」は、実際にお聴きになられるとよいでしょう。とにかくチャイコフスキーの感傷的な甘美さとか、カラヤンの晩年の演奏に遭ったような危うい官能美のようなものはみじんもなく、ショスタコーヴィチと同じ流儀で、とてつもない雄大なスケールに圧倒されます。
音質改善のおかげで、レニングラード・フィルのサウンドがこうも分厚く、色彩感も豊かであることに気づきました。

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