マーラー・コンプリート・エディション 04

サイモン・ラトルが切り拓いた新時代のマーラー

曲目等は以前の記事をご参照ください。

マーラー・コンプリート・エディション

幻想的からより複雑な世界へ

グスタフ・マーラー

グスタフ・マーラー(1860年7月7日 – 1911年5月18日)は、初期から中期にかけては非常に幻想的で明るく、構造的にも簡明な交響曲を書いていましたが、「第5」あたりから次第に複雑怪異なスタイルに変貌し始めます。

その背景としてかつて、彼の極度に神経質な性格、魑魅魍魎ともいえる音楽界でのマネジメントの心労、愛妻アルマへの病的な執着等を指摘する専門家は少なくありませんでした。さらに、そうした部分をことさら強調したバーンスタインの演奏が決定盤の評価を得ていたために、特に「第6」以降の交響曲がまるで「マーラーの病理」を代弁する曲であるかのように従来、見られてきました。

そんな概念が蔓延る中、2016年に面白い本が出版されました。アバド、ブーレーズ、バレンボイム、シャイー、マゼール、ドゥダメルなど、29人の指揮者がインタビュー形式でマーラー作品との出会い、演奏の難しさ、楽しさについて語っている本です。これはきわめて貴重な記録と言って良いでしょう。

この本を読んでみると、いかに多くの指揮者が20世紀後半に支配的であった「バーンスタインの亡霊」と闘ってきたかが分かります。特にハイティンクなんて見た目とても温厚そうですが、少し怒り気味にそれまでの「情感的なマーラー演奏」がいかに間違いであったかを糾弾しています。

ただ、いくら名指揮者たちがそれまでの演奏習慣を非難しても、我々聴き手はどうしてもバーンスタインやテンシュテットの熱い演奏の魅力には抗えません。しかるに、新世代の指揮者たちが、アンチ・バーンスタインの「すごい演奏」を聴かせてくれるようなことがあれば、我々のマーラー観は劇的に変わることになります。

そんな新時代のマーラー観を、誰よりも早く、何と1980年代から明快に提示していた指揮者がいます。そう、サイモン・ラトルです。

ラトルは、2002年に世界最高峰のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督に就任し、2018年にその任を終えるまで、既存の名曲をエキセントリックな解釈で洗い直し、常に我々に新鮮な感動を与え続けてくれました。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ロマン派から現代音楽に至るまで、彼とベルリン・フィルの紡ぎだす音楽の斬新さは他の追随を許しません。

そんな彼は青年期。1980年から1998年にかけて、生国イギリスのバーミンガム市交響楽団を率い、この無名のオーケストラを名実ともに一流のレベルに鍛え上げました。そして、その成熟の過程において、このコンビは素晴らしいマーラー演奏を世に問うています(5番、9番、10番は除く)。

この全集は今聴くと、とてもユニークな発想にみち、オーケストラも躍動するような活気にあふれています。ところが初発売時は(特に日本では)あまり話題にのぼりませんでした。要は時代を先取りしすぎていて、かつバーンスタインが新全集に取り組んでいた時期とも被るため、やや印象が薄くなったのかもしれません。

例えば「第3交響曲」の明朗な軽さは、バーンスタインのあの重々しい晩年の演奏とは対極をなします。第1楽章冒頭など、かなりタメる演奏でありながら、そこには若々しい勢いがあります。さらに、フィナーレも非常に弦の響きが綺麗で、奏者全員が音楽をする喜びに満ち溢れているのが伝わってきます。まさに、聴いていて心が洗われる演奏と言えるでしょう。

次の「第7交響曲」もすごい。この曲は「夜の歌」の副題を持ち、第4楽章ではギターとマンドリンという、オーケストラでは珍しい楽器が採用されるなど構成が複雑、かつ曲想も晦渋なために、マーラーの交響曲中では敬遠されがちな曲です。

そんな難曲を好んで採り上げる指揮者は少なく、さらにEMIにはオットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団による決定的な名盤があるため、このボックスではそちらが採用されるものとばかり思っていました。

ところが実際、採用されたのはラトル指揮バーミンガム市交響楽団盤。最初、クレジットを確認してがっかりしてしまいましたが、それも束の間、私はラトルの恐るべき精巧な演奏に驚嘆することになります。

1楽章から、これはベートーヴェンやシューマンと同じ、日常私たちが好んで聴く普通の交響曲として鳴り響きます。音色的魅力がきわめて高く、晦渋とされた無愛想な旋律の一つ一つが丁寧に美しく立ち現れます。

第2楽章も他の演奏では鈍重で垢抜けない感じがするのが、ラトルの棒によるとボヘミア的な牧歌があちこちから響き、まるで「巨人交響曲」を聴いているような愉しさがあります。

4楽章は「夜曲」。冒頭から艶めかしいヴァイオリンの響きが明滅し、その後はロマン派の穏やかな世界とベルクが描いたような無調の不安な世界を音楽が行ったり来たりしますが、こういうところの手綱さばきは、さすがラトルと言ったところ。

さて、最大の聴きどころは問題を多く孕むとされる終曲。多くの指揮者がそれまでの楽章の「陰」の空気と、この終曲の単純すぎる明るさとのバランスに苦労するのですが、ラトルとオーケストラは「そんなもの気にしないよ」とばかりに切れ味鋭く、素早くテンポを変化させながら前へ前へと進み、迷うところがありません。本当にかっこよくて、最後の観衆の拍手喝采も納得です。

マーラーの遺作となった「交響曲第10番」は、新しい1999年のベルリン・フィルハーモニー盤が採用されています。

この「第10番」は、マーラーが1911年に亡くなったため、未完の作品です。そこで、イギリスのBBC放送が彼の生誕100周年を機に音楽学者デリク・クックに補筆を依頼し、今日「クック補筆版」と呼ばれるものが出来上がりました。

当初、このクック版はマーラー未亡人のアルマの怒りを買い、一時は出版を禁止されるほどでしたが、クックが書き直しを行うと一転して彼女から激賞され、辛うじて陽の目を見ます。アルマが亡くなってからも、クックはコリン・マシューズ、ディヴィッド・マシューズの協力を得て「第3稿」を完成するなど、研究の手を止めませんでしたが、1976年に彼が死去。これで完結と思われたところ、今度はマシューズ兄弟が「クック版第3稿」の「第2版」を書き上げ、ラトルはこれを採用しました。

それでも、やはりマーラーの手による第1楽章アダージオは別格。ベルリン・フィルの絹のような弦のサウンドが、Aの音(これは作曲当時、妻アルマの不倫に悩んでいたマーラーが、彼女の頭文字を音化したものと言われます)を激しく絶叫する場面は、あまりに痛ましく、聴いていて辛くなるほど。でも音響は、神々しいくらいに美しいのです。

最後に補筆部分は、まるで彼の「第9交響曲」の如く、静寂の中に消え入ります。マーラーが仮に生きていたら、さらにどういう楽想となっていたか興味は尽きませんが、クックの真剣な仕事にラトルとベルリン・フィルは真っ直ぐ向き合い、真摯な演奏を展開しています。

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