鬼気迫る魂の協奏曲と変幻自在の小品集
ジネット・ヌヴーの熱心な聴き手と言うのは、クラシック・ファンの中でもかなりコアな部類に入るでしょう。ヌヴーは1919年にパリで生まれ、航空機事故によってわずか30年の生涯を閉じた悲運のヴァイオリニストです。
そのキャリアは、1935年のヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクール優勝と言う華々しいデビューから数えて、たった15年しかありませんでした。それでも、彼女は生命の炎を燃やし尽くすように圧倒的な演奏を繰り広げ、レコーディングにおいても後世の名だたるヴァイオリニストたちの追随を許さないような数多くの名盤を遺しました。
ただし、彼女の絶頂期を収めた録音はたったCD4枚程度の分量しかなく、しかもあまり音質の良くないモノラル録音で行われたため、ハイフェッツやオイストラフ(先述のコンクールでヌヴーに敗退)といった同時代に活躍した名手たちに比べると、彼女の名前は今日それほどメジャーとは言えません。
一方で、彼女のシャーマンのような鬼気迫る演奏を求めるコアなファンの声は没後も絶えることなく、ライヴ録音や1930年代の小品集が発掘されたり、市場から姿を消したLPが高値で取引されるなど、ヌヴーの妙技は21世紀の今日に至っても根強く、聴かれようとしています。
さて、そのような彼女の素晴らしさを確認するには、EMIで行われたヌヴ―の全録音を収める、このボックス抜きには始まらないでしょう。
Disc 01
● シベリウス:ヴァイオリン協奏曲ニ短調 Op.47
ジネット・ヌヴー(ヴァイオリン)
フィルハーモニア管弦楽団
ワルター・ジュスキント(指揮)
録音:1945年11月21日、ロンドン、アビー・ロード・スタジオ
Disc 02
● ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.77
● ショーソン:詩曲 Op.25
ジネット・ヌヴー(ヴァイオリン)
フィルハーモニア管弦楽団
イサイ・ドブロウェン(指揮)
録音:1946年8月16-18日、ロンドン、アビー・ロード・スタジオ
Disc 03
1. ラヴェル:ツィガーヌ
2. ラヴェル:ハバネラ形式の小品
3. スカルラテスク:バガテル
4. ファリャ/クライスラー編:歌劇『はかなき人生』~スペイン舞曲
5. ショパン/ロディオノフ編:夜想曲 第20番嬰ハ短調
6. ディニーク/ハイフェッツ編:ホラ・スタッカート
7. スーク:4つの小品 Op.17
8. ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ ト短調
ジネット・ヌヴー(ヴァイオリン)
ジャン・ヌヴー(ピアノ)
録音:
1946年3月26日&8月13日(1)、1946年3月12日(2,3,4)
1946年8月13日(5,6)、1946年8月14日(7)、1948年3月18日(8)
ロンドン、アビー・ロード・スタジオ
Disc 04
1. クライスラー:W.F.バッハの様式によるグラーヴェ ハ短調
2. スーク:4つの小品 Op.17~第3曲「ウン・ポコ・トリステ」
3. スーク:4つの小品 Op.17~第2曲「アパッショナータ」
4. ショパン/ロディオノフ編:夜想曲 第20番嬰ハ短調
5. グルック/クライスラー編:『オルフェオとエウリディーチェ』~メロディー
6. パラディス/ドゥシキン編:シチリア舞曲
7. タルティーニ/クライスラー編:コレッリの主題による変奏曲
8. R.シュトラウス:ヴァイオリン・ソナタ変ホ長調 Op.18
ジネット・ヌヴー(ヴァイオリン)
ブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラー(ピアノ:1-6)
グスタフ・ベック(ピアノ:7,8)
録音:1938年4月13日(1-6)、1939年(7,8)、ベルリン
ここでは、ヌヴーの精確かつエスプレッシーヴォの技巧を十二分に堪能できます。
同世代の大ヴァイオリニストたちからも激賞されたという彼女のテクニック。ところが、そのレパートリーはと言うと、パガニーニやサラサーテのような技巧派でなく、ベートーヴェンやブラームス、シベリウスと言った王道の協奏曲がメインでした。
例えば、ヌヴーの遺した名盤と言えばまず真っ先に浮かぶのが、イッセルシュテットとのブラームスのヴァイオリン協奏曲(このボックスに収められた演奏とは別)のライヴ録音。
ブラームス
1. ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op.77
2. ヴァイオリン・ソナタ第3 番ニ短調 Op.108
ジネット・ヌヴー(ヴァイオリン)
(1)ハンス・シュミット=イッセルシュテット(指揮)、北西ドイツ放送交響楽団
録音:1948年5月3日 ライヴ
(2)ジャン=ポール・ヌヴー(ピアノ)
録音:1949年9月21日 ライヴ
ここではヌヴーとオケがものすごい気迫でぶつかり合っていて、ブラームスが意図した緊密なオーケストレーションを十二分に表現した演奏に仕上がっています。最後までがっぷり四つで、写真で見ると細い少女が、大音量で芯の強いヴァイオリンを変幻自在に弾きまくり、ドイツの名門オケと堂々と渡り合うところが壮快です。
それに比べると、本ボックスに収められたドブロウェンとの共演は、かなり大人しい印象と言いますか、第1楽章からかなりリリックで、節回しなどまるでティボーやクライスラーのような懐かしさを感じます。オーケストラはやや楽天的すぎる音色で、映画音楽のようにチャカチャカするのが若干気になるものの、晦渋なブラームスのイメージを覆すような、南欧の明るさを思わせる若々しさが魅力です。
第2楽章もヌヴーの演奏に連想されがちなシャーマンのようなストイックさとは違って、ヴィヴラートをたっぷりかけた大きな起伏でメロディが歌われ、陶酔的な雰囲気に包まれます。峻厳なシゲティ、かつてコンクールで覇を競い合ったオイストラフの大柄な演奏に比べると、はるかに現代の若者たちの共感を呼ぶ弾き方と言えるかもしれません。
フィナーレは先程書いたイッセルシュテットとのライヴに比べれば折り目正しく、若干大人しめな感じ。それでもクライマックスに向かって徐々にテンポを飛ばして自由爽快に弾き切るところなど、さすがヌヴーです。音質が若干こもり気味なのはマイナスですが、イッセルシュテット盤とともにぜひ聴いてもらいたい一枚です。
続いてシベリウスのヴァイオリン協奏曲。ヌヴー26歳。始まるや否や、その高貴で妖気漂うヴァイオリンに心を奪われます。第1楽章2主題のロマンティシズム、その後のカデンツァの一転した激しい斬り込み。本当に素晴らしいテクニックです。
第2楽章は叙情的にメロディを目いっぱい歌いこみ、第3楽章もリズムに独特なアクセントを付けながらエキゾチックな雰囲気のある演奏に仕上げています。ヌヴーもさることながら、指揮者のワルター・ジュスキントが名伴奏者として知られるだけあってその巧みなサポートが光ります。独奏者、指揮者、オーケストラ3者がみごとに融合した名演と言えるでしょう。
ショーソンの「詩曲」もいいですね。
この曲は、ヴァイオリニストなら一度はチャレンジする名曲です。それだけに難しいのですが、ここでのヌヴーは技巧一辺倒ではなく、弓をいっぱい使って豊饒な音色を聴かせ、一続きの曲を飽きさせず弾き切ります。ややもすると退屈になりかねない曲なのですが、曲の良さを再認識させるような名演奏です。
この他、朝の清新さに溢れるリヒャルト・シュトラウスのソナタ、気怠さとは無縁でヌヴー節全開のドビュッシーのソナタも素晴らしいのですが、ラヴェルの「ツィガーヌ」の鬼気迫る弾きっぷりこそ、このボックスを購入する動機になり得ます。この曲はサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」に匹敵する超絶技巧を要しますが、彼女は「ラッサン」と「フリスカ」を完璧に弾き分けつつ、まるで舞曲のリズムを愉しむかのようにスウィングしています。しかも、ピッツィカートの箇所でそうした部分が聴き取れるのですから、悪魔的ですらあります。
全体に音質は悪いですが、悲運のヴァイオリニストの一瞬の火花のような輝きをぜひ楽しんで頂きたいと思います。