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モーツァルト演奏のスタンダード
かつて、ギーゼキングの弾くモーツァルトは、この大作曲家のピアノ・ソナタ録音のスタンダードとされていました。
彼の後で、イングリット・ヘブラーやリリー・クラウス、アルフレート・ブレンデル、内田光子と言った名ピアニストたちが、優れた全集録音を次々とリリースしていますが、やはり1950年代のレコード黄金期に、往時を時めく大巨匠ギーゼキングによるモーツァルトのピアノソナタ全集がEMIより発売されたのは、相当のインパクトがあったと言えるでしょう。
その後も繰り返し繰り返し「決定盤」として再リリースされ、名盤ガイドでは必ずトップに推されていましたから、その名声がすっかり定着したのは当然のことです。
で、実際にその完成度についてですが、今日の耳で聴いても相当に素晴らしい演奏と言えるでしょう。このボックスではDisc20-27で聴くことができます。
とにかく素直で伸びやかで屈託のない演奏。グールドやポゴレリチのクセのある演奏も愉しいですが、とにかくまとめてモーツァルトのピアノ曲を聴きたいという方には、このギーゼキング盤が絶対おすすめです。
例えばK.331のソナタを聴いてみましょう。この曲にはギーゼキングとほぼ同時期に活躍したエドヴィン・フィッシャー(1886年 – 1960年)のレコードも残っていますが、峻厳謹直、ドイツ伝統芸術の権化のように言われていたフィッシャーが、びっくりするほどロマンティックな演奏をしています。

フレーズの一つ一つにひだを付けながら丁寧と進行しているかと思えば、時に驚くような閃きに満ちたパッセージが出現する。第1楽章は本当に多彩で見事。有名な「トルコ行進曲」なんて飛翔するように腰が軽いかと思えば、突然ギアを激しく出し入れし、強烈なテンポルバートをかける。これがデジタル最新録音なら、ファジル・サイの演奏と聞き違えるかもしれません。
ギーゼキングはそんなことはしません。
楽譜に基本的に忠実で、そうかといって無機質ではなく、彼の特徴である珠を転がすような美しい音が聴き手を魅了します。有名な第3楽章「トルコ行進曲」もそう、私たちが昔から知っているあのテンポ、あのリズム。
ファーストチョイスとしてうってつけですし、名手による様々な解釈を聴いてからここに戻ってくればホッとする、そんな演奏です。
あとこのボックスの魅力は、モーツァルトのピアノ・ソナタだけでなく、変奏曲などいくつもの小品を収めているところにあります。「幻想曲」や「ロンド」、「きらきら星変奏曲」の愛称で知られるK.265等々。どれもステキな佳曲が宝石のような音色で弾き紡がれていきます。
ギーゼキングの演奏はどれも正統的で、私たちが期待するモーツァルトを極上の美音で聴かせてくれます。変に効果的なものを足さず、妙に即物的にもならず、ひたすら単調な音符の山と谷の行間をしっかり埋めながら、モーツァルトの陰影豊かな音楽を真摯に聴かせてくれます。20世紀最高のモーツァルト演奏の一つと言って良いでしょう。